2014年1月24日金曜日

はじめに

日本は徳川幕府による238年の間、限りなき太平の夢をむさぼっていた。サトウの言葉を借りれば、日本は森の中に眠れる美姫にも似ていた。国家太平の夢を守る役職の人たちは、姫の安眠を妨げるハエを、扇で追うよりも容易な仕事をしていたのである。姫の夢が、活動的で旺盛な、西洋人の出現によって破られた時、昔からのしきたりに凝り固まった、年老いて皺くちゃの番人たちには、その職責には耐えられなくなった。そのために、日本を取り巻く、様々に変化する情勢にうまく対応できる、もっと適任な人たちに自分の席を譲らなければならなくなったのである。また、各大名家も世襲制度の弊害により、藩主の行使する権力は、単に名目上のものにすぎなくなった。家臣の中でもより活動的で、才知に富んだ者(その多くは、身分も地位もない侍)が、大名や家老に代わって権力を行使出来るようになったとき、驚くべき1868年の革命(明治維新)が出現したのである。
原書“A Diplomat in Japan Sir Ernest Satow)”は、1921年(大正10年)ロンドンのシーレー・サービス会社から出版されたが、戦前のわが国では禁書として取り扱われていた。起草されたのは、1885年、シャム(現タイ)の首都バンコックへ英国公使として任地していた時である。また、後半の部は、日本に初めて任地してから、50年近くたった1919年後半の執筆で、主として日記を補足しながら完成させたと述べている。そこに記載されていることは、1862年(文久2年)9月から、1869年(明治2年)2月に一時帰国する迄の、6年6か月間の幕府、薩摩や長州藩との交渉、その他の大名家、幕末に活躍した志士たちとの交流、情報交換などの回想録である。サトウの生い立ちは、1843年6月30日、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つスウェーデン人の父デーヴィッドと、イギリス人の母マーガレットの三男としてロンドン郊外のクラプトンに生まれた。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業後、1861年英国外務省の通訳官として入省し、19歳になった1862年9月2日、日本に向け上海を出港し、9月8日横浜に着任した。