この連載中の文章で、どうしても触れずにはいられない外科医師ウイリアム・ウイルスを紹介します。1837年アイルランド生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で、医学を学んだ医学博士。サトウの言葉を借りれば、生涯の友人、実直無比な男で、同じ宿泊所で寝起きを供にしていた。東禅寺事件、生麦事件、ハリー卿襲撃などの外国人殺傷事件、鳥羽伏見戦争、彰義隊、越後、会津戦争などで、請われるまま、官軍、幕府軍の区別なく、戦病者の手厚い看護に専念する。1868年12月29日、越後、会津の戦傷者の手当てをして江戸に戻る。その後の談話で、城内には600名ほど、会津だけでも負傷者数は2千名もいた。また、ヨーロッパの外科手術が戊辰戦争時の外科手術に、きわめて必要だったが、日本の外科医は、どんな銃創でもみな縫ってしまうので、それが原因で死んでしまうことも多々あったとある。そして同年12月31日付けで、江戸の英国副領事に任官する。京都では、請われるまま山内容堂侯も診察した。維新後、明治天皇から金襴7本贈与、東久世からも丁重な感謝状を贈られた。余談だが、前任公使のオールコック卿の富士登山(1860年9月11日)に次いで、1867年パークス卿夫妻と富士山に登頂する。その後、新政府の要請で東京大学医学部の前身である、東京医学学校兼大病院の教授に就任、病院設立の指導に当たる。しかし、新政府がドイツ医学採用の方針を執ったため、退職した。その後、ハリー・パークス駐日英国公使の新政府に対する働きかけなどもあり、西郷隆盛の招きで、鹿児島医学校校長、付属病院長に就任する。日本人女性八重と結婚し、西南戦争勃発を機に東京に、1881年英国に帰国する。
稿を終えるにあたって;
日本の近代化には、大きな犠牲が強いられ、避けては通れない明治維新という過程があった。ちょうど英国外交官として巡り合わせた立場から、当時の日本社会を分析し、重要な立場の人たちの言葉や考えを、客観的に書き残している。薩摩、長州、その他の雄藩が、実効支配を弱めていく徳川幕府に対して、どのような見解で、どのような行動方針を計ってきたのか。また、討幕派の指導的立場の人たちは、たえず世界の情勢に、広く目を開き、今後の日本の進むべき道を探ってきたかなど、幕末の歴史研究家には必読の書である。そのほか、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の小御所会議では、土佐、越前、尾張などの親幕派から強硬な擁護があり、1月8日岩倉は、慶喜が辞官(内大臣)と納地返上に応じさえすれば、慶喜を議定に任じるという協調策を大久保、西郷らに提示した。しかし、1月17日江戸城二の丸焼失、1月19日、江戸三田の薩摩藩邸襲撃事件などが加わり、歴史の歯車は1868年1月27日の鳥羽伏見戦争へと進んでしまう。その後の過程では、木戸孝允が山内容堂侯に代わって主唱者となる版籍奉還があり、廃藩置県へと進み、明治新政府の基盤となっていった。そのほか、幕府の最高機密情報が、電信電話のない時代、速やかに、各雄藩の指導者たちに伝わり共有されていた。また、豊臣秀吉、徳川幕府以来禁令となっていた宗教問題に、明治の元勲たちがいかに苦慮し取り組んできたかなど、大変興味をそそられた。