2014年1月24日金曜日

第6章 外国人襲撃、殺傷事件

    アメリカとイギリスの公使が江戸に居を構えて6週間後、1859年8月26日(安政6年7月28日)ロシア軍艦の士官と水兵が、食糧の買い込みに上陸した横浜の街頭で斬殺された。最初の横浜外人墓地埋葬者となる。
    同年11月、フランス副領事のシナ人下僕が殺害、2か月後オールコック卿付日本人通訳、伝吉が江戸の公使館門前で背後から刺殺された。
    1860年初め、オランダ商船の船長2名が横浜で斬殺され、横浜外人墓地に埋葬された。
    その後外国人が次々と狙われ、1861年1月14日(万延元年12月4日)、アメリカ公使館通訳官ヒュースケンが乗馬で帰宅途中、攘夷浪士組、薩摩藩士伊牟田翔平らにより殺害された。幕府は1万ドルの弔慰金を支払う。
   1861年5月28日(文久元年)、英国公使ラザフォード・オールコック卿が長崎から江戸へ向かう際、幕府は警備上の問題で海路を進めたが、陸路で江戸へ旅した。それに対して、神州日本が穢されたと水戸脱藩浪士ら14名が、江戸に到着した7月4日の翌日、高輪郊外東禅寺の英国公使館に侵入し、書記官のオリファント卿と長崎領事モリソン氏が負傷する。犯人逮捕(切腹や斬首)と賠償金1万ドルの支払いで解決。
    1862年5月29日(文久2年)、同じ東禅寺で、日本人護衛(松本藩士伊藤軍兵衛)が、公使館の1番年少(15,6歳)の館員から侮辱を受け、その復讐のために、寝所の入り口に立っていた哨兵と巡邏中の衛兵伍長を殺害、短銃で傷を負った自身は割腹自殺。
    1862年98サトウが横浜着任、914横浜郊外の生麦村で、上海の商人リチャードソンが殺害、他の2人が重傷となる事件が起こる。横浜からわずか2マイルの保土ヶ谷に宿泊している島津三郎(久光)の下へ、犯人引き渡しを求めようと、横浜港に停泊していた各国1千名の兵士を差し向けることも可能であったが、ニール大佐は、実際上日本と開戦するに等しい結果を招くと反対する。フランス公使も同じ意見を述べたので、外交間交渉にゆだねることになった。
    1863年10月14日、フランスの将校(カミュス中尉)が横浜の居留地から2-3マイルも離れていない場所で、乗馬しているところを襲撃され殺害される。その親族に、3万5千ドルの賠償金を支払う。
    同年10月20日、英国のボールドウイン少佐とバード中尉の二人の士官が鎌倉で、騎乗しているところを殺害された。幕府は1か月もたたずに犯人を逮捕し、元矢田部藩士の清水清次ら二名を処刑する。日本の探偵警察の優秀なことは、外国人の間では評判であった。その後は、外国人殺傷事件は影を潜めていた。
    1867年8月5日(慶応3年)、長崎で英国軍艦イカラス号の水兵2名が、泥酔し道路で寝込んでいるところを殺害された。最初、土佐藩士が疑われ、外国総奉行の平山敬忠が犯人逮捕の責任者となる。ハリー卿の威信をかけた犯人捜しの追及も、維新が成立した1968年8月に、筑前藩士2名と判明する。懸賞金は銀4000枚(450ポンド)の高額となっていた。
    1868年2月4日(明治元年1月11日)、備前(岡山県和気郡)事件、その場に居合わせた、英国書記官リーヅデイル卿(ミッドフォード)の回想録では、攘夷思想の旺盛な備前兵士が、酒屋から出てきたフランス水兵を槍で小突いた。その後集まってきた外国人に対して、指揮官の滝善三郎が、外国人に向かって射撃するよう命令した。その際、若い米国水兵が軽い怪我をしただけであった。五代才助(薩摩藩英国留学生)と伊藤俊輔が、腹切りを宣言された日置帯刀の家臣、滝善三郎の命乞いを求めて書面を持参してきた。外国公使たちの3時間に及ぶ協議の結果、槍で小突いた兵士は死罪、命令をした滝善三郎はサトウらが見守る中、切腹する。
    堺事件、備前事件の教訓が生かされず、1868年3月8日、堺港の測量を行っていたフランス水兵が上陸した際、土佐藩守備隊との間にいさかいが起こった。ボートに乗って逃げる水兵に発砲し、2名即死、そのほか9名が溺死などで死亡する。新政府に対して15万ドルの賠償金と隊長以下4名、発砲を認めた29名から籤で16名が死罪となる。11名の切腹が行われたところで、フランス軍艦長から、その後の刑の中止命令が出る。その後、刑を免れたものは、精神上の痛手を受けた。辞世の歌(殉難後草捨遣)が国民の間に流布された。その1つを紹介する。“風に散る露となる身は厭はねど 心にかかる国の行末”。サトウも9首の辞世の歌を、英訳して紹介している。サトウは、備前事件の教訓が伝わらなくて、がっかりしたとある。
    1868年3月23日、明治天皇の外国公使謁見(京都)のため、宿泊先の知恩院を出発したハリー卿の一行が、四条縄手通りで2名の暴漢に襲われ、騎馬護衛兵10数名が負傷する。犯人の一人は元京都代官小堀数馬の家士、林田衛太郎18歳と大和浄蓮寺僧侶、三枝蓊(しげる)で、中井、後藤らの奮戦で、林田はその場で殺害。傷を負った三枝の取り調べによると、ハリー卿の国籍については、まったく関知しておらず、単に攘夷思想で決行した。その後、死罪となる。