2014年1月24日金曜日

第2章 英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析

1)サトウが着任した1862年(文久2年)9月ごろ
回顧録によると、主権者たる将軍と、2、3の手に負えぬ大名との間の、政治的な闘争である。これは、将軍が無力で、その閣老が無能なため、宗主たる将軍家を無視するに至った結果である。そして、神聖な日本の国土を“夷狄”の足で侵させ、貿易による利得を,すべて国家の領主たる将軍家の手に収めようとしている。それはまた、ペリーの日米和親条約(18543月、安政元年)と、後のハリスが結んだ日米修好通商条約(1858年6月、安政5)に対する不満を抱いた闘争であると。その後、サトウが着任した6日後の1862年9月14日,上海の商人リチャードソン殺害事件(生麦事件)、翌年1863年1月31日(文久3年)、建築中の英国公使館放火事件(高杉晋作、伊藤俊介、志道聞多ら長州藩士)が勃発する。英国の外務省は、前者に対して10万ポンド、後者に対して1万ポンドの賠償金を請求よとの訓令を、英国公使代理のニール大佐に送った。そのほか、薩摩藩主に対しては、犯人の尋問と処刑を、また、2万5千ポンドの支払いの訓令である。この時、将軍と主な閣僚は京にいて、江戸を留守にしていた。ニール大佐は江戸湾深く、艦隊を派遣する。その結果、江戸市中は大混乱になったとある。外国奉行の竹本正雅(まさつね、甲斐守)は幕閣の意向を伺うため、急遽京都に上洛する。江戸に立ち戻った5月25日ニール大佐と会談する。その席で竹本甲斐守は、英国の要求に応じ難いのは、大名たちの反対があるからと説明する。それらに対して、ニール大佐は、英国とフランスの軍隊は将軍を援助し、攘夷派を排除し、その鎮圧に力を貸すことを示唆した。また、条約を締結したからには、将軍に履行の義務があることを強く迫った。当時は、ミカドに無限の権威があることに、考えが及ばなかったからである。竹本甲斐守は、その申し出に対して、将軍の名において感謝したいが、将軍は自己の権威と兵力によってのみ、大名との間の疎隔の解決に努むべきで、外国の援助は辞退せざるを得ない。また、仮に英国が薩摩を攻撃すれば、将軍も他の大名も、薩摩と行動を共にせざる得なくなるとだろうと返答した。そのほか、幕府は、賠償金の分割払いには同意している。しかし、他の大名たちは、これらの措置を知れば、幕府に対する反抗を、より強固なものにするかもしれないと心配していた。この時期、ニール大佐は上海のブラウン少将に2千名の兵員派遣を要求していたが、軍隊派遣は不可能であり、不承知であるとの返書が届いていた。6月24日、老中格小笠原長行が、賠償金44万ドル(11万ポンド)の受け渡しと、その見返りに3港(横浜、長崎、函館)の閉鎖、在留外国人の国外撤去を諸外国代表に通告した。そして即日、2000ドル入りの箱を馬車に積み、3日間かけて支払った。この通告に対して、ニール大佐は文明国と非文明国とを問わず、あらゆる国の歴史に類を見ないことであり、これは条約締結国全体に対する日本自身の、宣戦布告にほかならないと反論する。また反面、日英条約上の責務を従来より一層“満足な、そして強固な基礎に置くために、合理的にして肯定することの手段”を速やかに公表させ、また、これを実施させることも、両国元首の可能とすることだと述べた。
2)1863年8月15日(文久3年)の薩英戦争と1864年9月5日(元治元年)下関戦争後
これまでの、幕府側との度重なる交渉の経験から、将軍の家臣たちは、上下関係が強く、また、幕府側の行為には裏表がある(後で触れるが、孝明天皇が大の外国人嫌いで、攘夷に凝り固まっていた。そのために、幕府側は勅許を得ることが出来ず、右往左往していた。筆者注)。その結果、英国外交団は、幕府側との交渉に対して、嫌悪の感情を抱き始めていた。それらに対して、薩摩藩の謝罪と賠償金2万5千ポンドの支払い(幕府からの借用金のまま維新を迎えた)、また、長州藩の英国留学生、志道聞多(しじぶんた、井上馨)、伊藤俊介(伊藤博文)の働きもあったが、下関戦争の休戦協定前後の長州人は、忠実に約束を守った。これらのことから、長州人は、信用に値すべき人たちであるとの認識を与えていた。また、薩摩人にせよ、長州人にせよ、交戦したにも関わらず、英国人の行為に対して、なんら恨みを抱く様子もなく、その後の騒乱と革命の幾年月の間、常に、英国人の最も親しい盟友となっていったと述懐している。
3)幕府側との交渉訣別
1864年9月8日、長州藩が和議を請うために、伊藤俊介の案内で、使節代表宍戸刑馬(高杉晋作)ら3名が来艦(ユーリアラス号)する。艦上に来た時、高杉晋作はLucifer(魔王、坂田は悪魔と訳している)のような高慢な態度をとっていたが、徐々に態度を変え、すべての提案をなんら反対することなく承諾した。そして、その交渉の間に伊藤は、外国船攻撃は将軍から1回、ミカドからは再三の命令を受けて行動したのだと説明し、ミカドと将軍から受け取った、外国人を日本から放逐せよとの命令書の写しを提示した。後のサトウの述懐では、前年の夏に、長州藩はミカドから攘夷の詔勅を強引に引き出した(extorted)とある。4か国代表たちは、この休戦協定の賠償金支払いは、長州一藩では不可能と判断しており、伊藤から預かった京都の命令書の写しを証拠に、長州藩が当然支払うべき賠償金を幕府に請求する。また、それらの代案として、その支払いが不可能なら、下関か瀬戸内海の一港を、通商のために開港すべきとの条件も提示した。その背景には、再着任した英国公使ラザフォ-ド・オールコック卿は、賠償金の強要よりも敵意を有する諸大名が、ミカドの名をもって絶えず行ってきた、外国との通商条約反対運動を終息させ、ミカドの条約批准を獲得することであった。また、当時は諸外国も金銭を欲していなかった。日本との関係の改善に役立つならば、いつでも喜んで賠償金を放棄したであろう。その反対運動の2大張本人、薩摩と長州藩が、外国勢力に対抗できないことを知った今、幕府は将軍の名で、日本全国を強制的に、新しい対外政策に従わせることも容易にできると思えた。しかし、真から外国人嫌いの攘夷派の筆頭、ミカドに反論できない幕府は、新たに兵庫の開港を許可するよりは、長州藩が支払うべき賠償金(300万ドル)を支払うことに、4か国代表との間の協定書に調印する(1864年10月22日、横浜)。しかし、翌年の4月、幕府の閣老から、1回50万ドルずつ6回にわたっての支払いが、不可能だとの覚書を本国のラッセル卿が知り、その指示で、代わりに、ミカドの条約批准の約束(兵庫港開港)と輸入関税を5%まで引き下げることを再度要求する。この後の、幕府の小笠原壱岐守(かみ)長行と阿部豊後(ぶんご)守正外(まさと)との幾度かの交渉でも、この4か国提案には、幕府側は承諾できず、4か国提案に屈服するよりは、むしろ第2回分の賠償金を支払ったほうがましだとの考えに至っていた。外交団には、この頃には条約の締結には、ミカドの勅許が欠かせないことを理解していたが、幕府は下関戦争後の調停条約が、ミカドの勅許を得る力がないのか、得ることを好まないのか判断ができなかった。そのために、この先進められる交渉の過程では、衰退しつつある徳川幕府の後押しをすることは、英国にとって好ましい策でなく、もはや、はっきりと将軍を見捨てなければならいとの考えに至っていった。その間、第14代将軍徳川家茂(いえもち)が建白書をミカドに提出する。そこには、一般国民のためにはもちろんのこと、ミカド自身のためにも、条約批准は必要であると奏請していた。それが朝廷側に拒否されると、将軍は江戸へ立ち返ることを決意し、大阪へ向かった。しかし、朝命が下り、江戸への帰ることの差し止めとなった。その後も、将軍後見職の一橋慶喜の更なる献言と、これに応じなければ自身も腹を切るつもりであるとの明言により、ミカドもついに通商条約批准に同意された(1865年11月24日慶応元年)近代日本が始まったことになる)。しかし、兵庫の先期開港(1866年1月1日)については、不勅許であったその結果、関税率は5%に引き下げられたが、すでに決定していた兵庫の開港は、1868年1月1日(慶応3年12月7日)まで延期されることになった。文久遣欧使節、竹内下野守らの開市開港延期談判条項の再確認となる。しかし、賠償金の残余の分割支払いは、維新後の新政府の大きな負担となっていった。後になり分かったことだが、ミカドの承認とは、外国事務処理は、将軍に委任するという、3行ほどの短い布告文書に過ぎなかった。その上、兵庫と大阪を貿易港として開く案の、削除を命じる修正条項も加えてあったのである。
ミカドは真の底から外国人嫌いで、あくまで幕府に頼りきっていたことがわかる。維新後サトウは、もし兵庫が1868年1月1日以前に開港していたら、革命派は革命の好機を逸することになっただろうと述べている。
4)18663月(慶応2年)、サトウは横浜の外国居住民あてに発刊していたジャパン・タイムズの主幹、チャールズ・リッカービーとの縁で、日本国内の旅行記、社会情勢などの記事を連載していた。その中で、幕府と締結した通商条約の恩恵は、幕府の直轄地の住民だけで、この国の大部分の人々と、外国人との間を断ち切るものである。そして、各種の公文書を翻訳している間に、将軍自身は自分を単に、ミカドの第一の臣下以上の、何物でもないとの考えでいることがわかってきた。そこで、条約の新たな改正と、日本政府の組織の改造を求める記事を掲載した。サトウの提案とは、将軍を本来の地位に引き下げて、これを大領地の一人とみなす。そして、ミカドを元首とする諸大名の連合体が、幕府に代わるものとするというものである(参考までに、すでに1863年12月、薩摩藩主島津久光主導で、将軍後見職慶喜を含めた朝廷参預による公儀政体論、参預会議が行われた。しかし、幕府の賛同が得られず、翌年3月には解体してしまう)。この社説の日本語に訳した写本が、いつの間にか日本各地に広まり、それ以後、諸大名の家臣たちは、サトウに好意を示すようになった。後にそれが、“英国策論”の表題で、大阪や京都の本屋で発売されることになる。186715の宇和島藩訪問時、前藩主伊達宗城(むねなり)との政治談議で、サトウが書いた“英国策論”を読んだといわれ、大変驚いたと述べている。そして、この前藩主から、フランスが幕府と手を結ぼうとしていると教えられた。しかし、わが国(英国)の条約は、日本国と結んだもので、特に将軍と締結したものではないと話す。そして、また、英国は日本の内政に干渉したくないので、日本人が日本人同士の国内紛争を、自ら解決するならば、それでいうことはないとも説明する。この本は幕末、勤王、佐幕派からも、英国公使館の意見を代表するものと、競って読まれることになった。
5)1867年4月(慶応3年)、老中板倉勝静(かつきよ)が取り仕切った外国諸公使引見(大阪)時、ハリー・パークス卿と将軍徳川慶喜の会見後、大阪の宿舎(長法寺)に西郷やその一派の訪問を受けた。彼らは英国と幕府の接近については、大いに不満の態度を示した。サトウは革命の機会が無くなったわけではないと、それとなく西郷に話す。
6)同年12月18日、大阪の宿舎に石川利政が訪ねてきた。そして、大名会議の日取りはまだ決定していないので、将軍慶喜が他の大名より遅れて京都に着いても、非難を受けることはないだろう。また、すでに京都に来ている大名、あるいは近く京都に到着するはずの大名が、諸事を議論して(四侯会議)、ある決定(内大臣の辞官と納地返上問題)を行なったとしても、集まった大名の数は少ないのだから、決定されたことが実行できるだろうか。それには必ずや反対が起こるだろうと話した。サトウら英国公使館側は、この石川からの話から推して、動乱は起こりそうにないとは言えないが、会議の日取りを延ばしているのは、反対派を困らせようとする幕府側の意図的な行為であると推察した。そして、20日に江戸の公使館から陸便で届いた手紙には、慶喜はもはや将軍、もしくは、それ以上の何物でもないというのが世間の見方になっていると書かれていた。距離の隔たりと口から口への風説は、時局の様相をかくも大きく変えたのであるとサトウは述べている。伊藤からは、日本国内の平和のためには、徳川家の領土があまりにも大きすぎる。そのために、その領土の一部を奪取する目的で、すぐにでも戦端が開かれるだろう。そして、兵庫、大阪の外国貿易のための開港(1868年1月1日)を、延期してほしいと要請された。また、大阪と兵庫の日本側の代表者は誰を任命したら良いかと助言を求められたので、サトウは現在の奉行ではと話すと、そんなものは危機が来れば、直ちに放逐されてしまうだろうと反駁した。この時期に至ってもサトウらには、緊急に戦端が開かれるとの確信が持てず、すぐにでも政権交代が起こるとは考えていなかったのだろう。
7)1868年4月28日、西郷が横浜でパークス卿を訪ねた時、パークス卿は、慶喜とその一派に対して過酷な処分、特に体刑をもって望むなら、ヨーロッパ諸国の世論はその非を鳴らして、新政府の評判を傷つけることになるだろうと忠告する。西郷は前将軍慶喜の一命を要求することはあるまいし、慶喜をそそのかして京都へ軍を進めさせた連中(主席閣老板倉伊賀守勝静、会津藩主、松平容保ら)にも、同様に寛大な処置がとられると思うと答えた。
8)維新後のサトウの述懐
1863年6月24日(文久3年)、英国公使代理のニール大佐が幕府側に返答した、この“強固な基礎と、合理的にして肯定することの手段”とは、第2章、1)でも触れたが、英国側から将軍に、物質的な援助の計画を暗示するものであった。もし仮に、この種の援助政策が実行されれば、将軍家の先祖伝来の地位は安定し、そして、1868年の革命(明治維新)は困難を極め、よりおびただしい流血なしには成就しなかっただろうと述べている。また、その結果、日本国民は外国の援助で、自己の地位を強化した支配者をより増悪し、そのために、将軍はより苛酷な抑圧手段を取らなければ、その地位を保てなかっただろう。また、将軍の閣老が、外国の援助の申し出を拒否する、愛国心を持ち合わせていたことは、まことに喜ぶべきことであったと称賛している。日本人は、自己の力で救済を行うことになり、革命が勃発した後も、生命財産の損失を、わずかの範囲に食い止めることができた。当時フランス公使ロッシュ氏は、幕府側を支持し、横須賀に兵器廠設立を援助し、また、徳川家の軍事組織を優れた基礎の上に置こうと、兵士を教練するため優秀なフランス士官を周旋していた。北ドイツの代理公使フォン・ブラント氏とイタリア公使ラ・ツール伯もロッシュ氏の政策に追従していた。一方、英国はラザフォード・オールコック卿の後任公使に、より献身的な公僕であるハリー・パークス卿が派遣され、中立主義を貫いた。オランダの外交官はハリー卿に与し、新任のアメリカ公使ファルケンブルグ将軍は中立の立場をとっていた。このような状況の中で、ロッシュ氏に同調して、幕府側の後押しをしなかったことは、あのように早く内乱が終熄した原因でもある。日本自身もパークス卿のおかげを被っていることを充分に知る必要があると結んでいる。そして、将軍慶喜が大政奉還した1867年11月8日(11月9日勅許が出る)の後、12月15日に開かれる予定だった四候会議で、幕府に対する新政府の要求は、政権と政権を充分に維持していけるだけの領地、200万石を引き渡せというものであった。この要求に応じれば、徳川家には、譜代大名及び大部分の旗本の領地を別にしても、なお250万石の領地が残る勘定であった。慶喜自身は同意の気持ちでいたのだが、徳川方はこれを拒絶すると共に、80万石の土地だけ引き渡して、その上に、天皇政府を維持していくための補助金は、継続して支出することにしたいと申し出た。もし、この要求に服従していたなら、徳川800万石の内、約700万石が、実際に新政府の領地になったのであるが、残余の所領を保有して、とにかく平穏にやっていけるはずであった。また、鳥羽伏見戦争が起こる前、1868年1月10日(慶応3年12月16日)外国諸公使引見時に、慶喜が置かれた状況をハリー卿に説明し、薩摩、長州との間の仲介を要請されたら、英国と両藩との親善関係からも、大阪に留まることも可能であっただろうとも述べている。

中休み;
1)当時の日本
日本人は大の旅行好きで、本屋の店頭には宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物、そのほか、旅行者が必要な事柄を細かく書いた、旅行案内の印刷物が沢山置いてあった。相当良い地図も容易に手に入り、精密な縮尺で描かれたものではないが、それでも実際に役立つだけの、地理上のあらゆる細目にわたって書いてある。東海道の行程は、京都の伏見から江戸まで、320マイルの旅で、計算上16日要する。また、その道中での、駕篭による一日の行程は、20マイル弱(1時間約3マイル)ほどであった。
サトウが着任した1862年(文久2年)頃は、幕府との重要な討議の場は江戸で行われた。横浜に居住していた外国人で江戸に行く特権は、条約で外交使臣だけに限られていた。無官の外国人は神奈川(現在の横浜市神奈川区あたり、神奈川本陣があった)と江戸との中間にある六郷の渡し場(多摩川の下流)を渡ることはできなかったのである。そこで、サトウらの若い館員は長官(ニール大佐)の江戸定期参府の随行を命じられると、うれしくてたまらなかったとある。その一行の周囲には常に、身辺の保護という名目で、その実は日本人と自由に話をさせないための、騎馬護衛兵(主に旗本の子弟)がついて回った。その後1867年(慶応3年)ごろになると、ある程度自由に江戸市中を遊覧できるようになった。外人訪問客が興味をそそられる所は、江戸市中を見渡せる神田明神や愛宕山、そして、浅草の観音堂、外国人が本を買う神明前の岡田屋書店などである。そのほか、六郷川を渡った2マイルのところに梅屋敷という観光地があり、季節の如何を問わず賑わっていた。外国人もピクニック用のバスケットを持参し、魅力に富んだ美しい乙女たちの接待を受けるため、お茶屋にも立ち寄った。また、日曜日の行楽には、横浜から馬で東海道を遠乗りし、川崎で弁当を食べて夕方帰宅する。場合にはもっと遠出して、金沢(現在の横浜市金沢区)、鎌倉、江の島まで行くこともあった。横浜から25マイル以上の旅行をする特権は、諸外国の外交代表だけに限られていた。そのために、条約の制限区域を越えて、八王子や箱根まで行くものは、命知らずと言われていた。八王子、厚木、高尾山などの街道には関所があり、通行券を見せねばならなかった。
2)貨幣価値
サトウが着任した1862年頃、100ドルは条約上311分、為替相場は214分であった。そこで、悪徳外国官吏は、毎月40%近い利ざやを獲得することができた。横浜で購入した日本語辞書が4分(1分銀4枚)、すなわち、2ドル払った。後で、本屋に行き値段を確認すると、1分半だった。自分の給仕は悪党だと怒ったとある。横浜から、神奈川(横浜市神奈川区)に行くには、湾をまたいて舟や馬で、櫓舟で行く場合は、外国人は1分の金を出して、渡らねばならなかった。現地の人は天保銭1枚でよかった。天保銭16枚半が1分とある。1867年6月、サトウが江戸に帰り、横浜の友人たちと箱根や熱海(当時旅館は2軒しかなかった)見物。人足の駄賃は箱根までの山道1人、1分と4分の3(2シリング4ペンス)、10マイルの距離ごとに、1駄が464文、人夫は233文。ところで、当時の1両は、1分銀4枚、6、600文であり、英国の貨幣では、5シリング4ペンス、2両が1ポンドに相当した。神奈川本陣の宿泊代、護衛、役人など総勢4人の宿代は、朝食、夕食、酒代一切込で、8シリング4ペンスであった。蝋燭、燃料、風呂代などを別に請求するヨーロッパの勘定書とは著しい相違があり、日本での別勘定は酒と肴だけである。チップは誰ももらうことを考えていないので必要はない。代わりに茶代として一分銀(約1シリング4ペンス)1枚を主人に渡してきたとある。そのほか、役人用の中古の引戸駕篭の値段は1分銀32枚、すなわち4ポンドもしなかったとある。同年、江戸湾を見渡せる切り立った丘の上に、高屋敷と呼ばれていた一軒家を借りた。家賃は月1分銀百枚で、6ポンド13シリング4ペンスに相当した。サトウの年俸は、1865年4月横浜の領事館付通訳官の時、わずか400ポンドであった。翌年8月、日本の閣老と会見するときの、オランダ語通訳官が500ポンドであることを知り、100ポンド増俸をハリー卿にお願いして、外務省に手紙を書いてもらった。1867年12月31日、通訳官であったサトウは、英国外務省から年俸700ポンドの日本係書記官に任命され昇進した。尚、公使の年俸は3000ポンドである(英国は1816年から、金本位制となり、1ポンド金貨は20シリング、240ペンス)。