2014年1月24日金曜日

第4章 若松城陥落

1868年11月16日に行われた、外国使臣と東久世(外国官副知事)、寺島宗則(神奈川県知事)との会見の席上で、若松城が11月6日に官軍に降伏したことを知らされた。会津藩主父子(松平容保、その子喜徳)は礼服を着用し、降伏と書いた大きな旗を持った家来を先頭に立て、同じく礼服を来て頭をそった守備隊員を従えて、攻囲軍の軍門に降伏した。官軍の幕僚長、中村半次郎(後の桐野利秋)は城と城中の器財を受け取りに城に入り、その惨憺たる状況を見て、男泣きに泣いたという。京都の官報に公表された肥前藩の詳報によれば、会津の守備軍の侍階級の軍人764名、下級の兵士1609名、負傷者570名、他領からの脱藩者462名、婦女子639名、役人199名、一般人646名、藩主父子の身辺の従者42名、人足42名からなっていた。防戦中の戦死者数の記録はない。