2014年1月24日金曜日

第1章 要約

日本語を操る幕末の英国外交官サトウは、佐藤でなくSatowである。てっきり日本人との間の二世かと早合点していたが、シナと日本の通訳生3名の外交官試験に、トップで合格した正真正銘の英国外交官である。薩摩英国戦争や長州との下関戦争にも通訳官として参戦し、また、関東以西の各地(四国、九州まで)を英国公使代理の名代で、駕篭や馬に乗り、藩主の大名たちを訪問する。一方寄席見物(忠臣蔵や皿屋敷など)などでは、聾桟敷に置かれながら、その料金が、外国人は高額なことに納得がいかず庶民の席へ移動し、また、渡し船では、庶民の料金の支払いのまま、寄席が始まるまで、また、船の動くまで追い立てに動ぜず、相手が根負けするまで居座っていたなど、正義感あふれた性格が面白い。
維新前年の1867年5月には、大阪から横浜への帰りは、船で帰らず、駕篭二挺を自前で購入し、小田原迄東海道を乗り継いだ。この道中の“東海道膝栗毛”では、天竜川を渡った掛川近くで、この先で、“bar bare”の一行、即ち、例幣使(日光への勅使、出会ったものは、大名でも駕篭を降りて土下座しなければならない)と遭遇するかもしれない。そのために、役人から横道にそれることを薦められた。”一外交官の見た明治維新“の訳者、坂田は野蛮人(barbarian)と訳しているが、”無礼無礼“の一行と役人は伝えたと思う。その夜半、サトウらの宿泊先に、例幣使の家来が”barbarian“(毛唐?)を出せと襲撃してきたとある。しかし、この襲撃事件では、相手を懲らしめ、庶民の喝采を得たとある。この道中の警護隊長は、その後サトウの部下として採用された。同年7月には、新潟開港の準備のために、横浜から軍艦で函館を経由し、新潟を訪問する。佐渡ケ島では金山も見学した。その後、七尾から上陸し、駕篭に乗り陸路大阪へ向かう。その体験談は活き活きと、庶民の生活習慣、風景なども事こまかく書き残している。
風雲急を告げる1867年11月16日真夜中、外国奉行の一人、石川河内守(石川利政)が、将軍徳川慶喜が大政奉還したことをハリー卿に伝えた。12月2日、横浜からハリー卿と共に軍艦に乗り大阪(ozaka)に着くと、平和で活気に溢れていた商業都市は、両刀を帯した諸大名の家来で満ち溢れ、その上に、庶民の“Ii ja nai ka,ii ja nai ka”(isn’t it good)の踊りも加わり、騒然としていた。西郷はまだ来阪していなかった。幕府閣老との情報交換、その後、12月14日、薩摩藩の友人、吉井幸輔(サトウの人物評では、小柄だが非常に快活で、薩摩なまりを丸出しにしてしゃべり、薩摩藩との連絡を取り持った)から薩摩、土佐、宇和島、長州、芸州の諸藩の連合が成立した。これらの諸藩は主張を貫徹するために、最後まで押し徹していく。肥後と有馬がこれに同調する気配を見せている。肥前と筑前は無関心の態度を示している。そして、幕府側は京都に約1万、薩摩と土佐は、両者合わせて約半数の軍勢を京都と大阪に集めている。やがて、芸州その他の大名も軍隊を繰り出すだろう。幕府側の中には、長州藩を完全にやっつけるため、戦争再開を強行すべしという連中が多い。長州問題を平和のうちに解決することは至難であろう。そして、長崎で知り合った土佐の才谷梅太郎(坂本龍馬)が、数日前(12月10日)に京都の宿で3名の姓氏不詳の徒に暗殺されたと教えてくれたその後、伊藤俊輔からは、毛利藩兵士は藩主世子、毛利兵六郎(元功)と福本志摩に率いられて、京都へ上りつつある。桂と吉川監物は、領内の行政に当たるために、余儀なく、領国に留まることになったと知らされた。実際に、1500人の長州兵が12月23日、毛利内匠(たくみ)に率いられて、西宮に上陸した。
その後の1868年1月1日の兵庫開港、大阪開市、1月27日の鳥羽・伏見の戦いまでの推移は、映画の画像を見ているように、臨場感あふれ、迫真に満ちた描写が続く。
最後は、1868年11月26日(明治元年10月13日)、品川で一泊された明治天皇は、この日江戸に入られた。泉岳寺前(高輪)の、前英国公使館邸があった外務省みたいな屋敷前の広場で、この明治天皇一行の鹵簿(ろぼ)を見学した。古式豊かな廷臣たちの行進を期待していたが、警護の兵士たちの西洋風をまねた服装と、だらしのない乱髪のために、東洋風の印象が台無しにされた。しかしミカドの黒漆塗りの駕篭(鳳輦、ほーれん)はサトウたちには大変珍しかった。そして随行員の一人、旧知の伊達老侯(伊予守、伊達宗城むねなり、)が馬上から、親しみのある態度で、会釈して通り過ぎたと書かれている。そのほかに職務で、外国人殺傷事件の斬首刑や割腹の儀式にも立ち会い、その生々しい状況描写は身の毛がよだつ。外国人暗殺者の辞世の言葉は、捕えられて死刑になるとも悔いはない。夷狄を殺すことは、日本人の真の精神である。サトウは彼らの刃に倒れた外国人たちや、その報復として処刑された人々の生命も、やがて後年その実を結んで、国家再生の樹木を生じさせ、大地に肥沃の力を与えたと結んでいる。このように終始一貫、中立政策をとり続け、日本、日本人を愛し、日本の近代化に大きな貢献をした外交官である。日本を離れる際には、岩倉具視卿、東久世通禧(みちとみ)侯をはじめ、多くの要人(大久保利通、木戸準一郎、勝海舟等)、薩摩の藩候などから感謝の標しとして贈答品が贈られた。1869年2月24日、横浜から814トンのオッタワ号で、ハリー・パークス卿夫人らと、そして、終始執事として働いてくれた会津藩の侍、野口富蔵を連れて、ホーム・スイートホームの演奏に送られ故国に向かった。
サトウの日本滞在は、歴代英国公使に仕えて、1882年(明治15年)12月まで、約25年間の長期に及んだ。その間数多くの著作があり、オクスフォード大学、ケンブリッジ大学から学位を受け、また、外交官としての在職中の功績により、1895年Sirの称号を授与された。

追補、孝明天皇崩御について;

長崎から、薩摩藩、宇和島藩訪問後、横浜に帰任していたが、1867年、将軍徳川慶喜が外国代表を大阪に招くとの知らせで、再びハリー卿に随行して2月9日兵庫に停泊した。そこで、プリンセス・ロワイヤル号の艦長から、三田尻で長州藩の藩主毛利慶親(よしちか)、世子毛利広封(ひろあつ)、桂小五郎、吉川監物(けんもつ)の4人が映っている写真を頂く。その甲板上で、日本人の貿易商人から、1月30日(慶応3年12月25日)孝明天皇が天然痘で亡くなったと教えられた。数年後、その間の事情に通じているある日本人から、孝明天皇は毒殺されたと確言(assured)された。このミカドは外国人に対して、いかなる譲歩もしないことで知られていた。来たるべき幕府の崩壊によって、朝廷が西欧諸国と当面しなければならなくなることを予見した、一部の人によって排除されたと記してある。