2014年1月24日金曜日
第5章 耶蘇教禁令について
1867年9月長崎訪問中、浦上村で、多数のキリスト教教徒が逮捕されたと薩摩藩家老、新納(にいろ)刑部が教えてくれた。日本ではキリスト教については、魔法か妖術の類との思いが強く、禁制の擁護となっていた。その後、1868年5月18日、この問題について、後藤象二郎と伊達宗城(むねなり)が、横浜のハリー卿を訪ねてきた。伊達は耶蘇教(邪悪な、有害な宗派)という用語に難点があることを認め、大阪や兵庫の制札には出さぬようにする。しかし、耶蘇教の禁制条項をすべて除くということは不可能であろうと話した。ハリー卿は、信仰の自由は文明の証拠であると半駁する。そのあと、中井弘とサトウで長い時間、この問題について話し合いをし、法令では特にキリスト教と名ざさずに、単に、有害な宗派の禁制とすべきであると提言した。しかし、日本政府はこの禁令の撤廃を行う意思のないことは明瞭であった。何故なら、これを撤廃すれば、布教態度があまりにも、積極的なために嫌われていた、長崎のローマン・カトリック宣教師に対して、行動の自由を認めることになるからである。ハリー卿も何とかこの問題を解決しようと、その翌日、三条実美、伊達、後藤、木戸などと再度会見する。中井はサトウに向かって、彼らは独裁権がないのであまりあてにならないと話す。日本側もこれを邪宗門と書いたことは、間違いである事を認め、この字句を改めることを申し出た。その結果については、日本側は何一つ発表しなかったが、それは、キリスト教を黙認する結果となった。5月24日、ハリー卿は前回の閣員と、今度は岩倉と、初めて顔を見知った肥前の若侍、大熊八太郎(重信、アメリカ人宣教師フルベッキ博士の弟子)も加わっての討論となった。しかし、他の諸外国外交官の共同抗議も効果なく、長崎浦上村、老若男女4千名の日本人を、他の地方へ追放する処分が断固として実行された。同年12月21日横浜の公使館で、ハリー卿、伊達、東久世、小松、木戸、町田民部(薩摩の英国留学生)、池辺五位(柳川藩士)などと大会議がおこなわれた。議題は、山口範蔵(外国官判事)を軍艦で函館まで送り、函館の反軍の首領(榎本武揚ら)と談判させること。第二はキリスト教問題であり、木戸とハリー卿との間で大激論があった。結局ミカドの思召で、キリスト教徒を寛大に処置するという意味の覚書を、外国公使たちに送ることを約束させた。その後、サトウが帰国する直前、1869年2月14日、東久世が主催した送別会で、木戸、森有礼から、日本人キリスト教徒問題の助言を再度求められた。そこで、スペインでも最近まで、新教徒の信仰の自由がなかったことなどを話し、議会の条例で、信教自由の観念を日本人に吹き込むことの困難であることを認め、まず、穏便な方策を取ること。時々、外国公使たちへ長文の覚書を送り、彼らをなだめるようにすること。森が言うような蝦夷の地(北海道)で、キリスト教徒に土地を分配して、自由に信仰させるという考えが、良いとは思わない事などを話す。しかし、残念なことに、ハリー卿はじめ各国外交官の諫言にも関わらず、浦上四番崩れと言われる彼ら信徒は、津和野、萩、福山の流刑先で拷問、私刑を受けることになる。信徒の釈放は、岩倉使節団(明治4年11月12日)が訪問先の各国で、この問題で非難をあび帰国した、1873年(明治6年)2月24日を待たなければならなかった。配流された信徒数は3394名、その間の死者は662名の多数になった。