数多くの要人、志士たちとの出会いや対談、そしてその時々の、当事者だけが知り得た情報交換が行われた。その際のサトウの人物評を,時代の推移を無視して、また、幕末の重要な地位の順に紹介する。興味が惹かれる人物だけに限定した。()内は筆者注。
1)幕府
徳川斉昭(水戸の前藩主、なりあき);攘夷派の筆頭。水戸家の家憲は、将軍を支持し、将軍を幇助することであり、天皇(ミカド)こそ、最高の統治を行う正当な権利者であることを、肝に銘じていた人物。また、当時のオランダ、シナとの制限付き交際以上に、外国との交際を拡大することには、強力に反対してきた。しかし、オランダ学者を密かに領内に招き、ヨーロッパの諸科学に傾倒し、古書の絵図を頼りに、フリゲート艦の建造も試みた。
徳川家慶(いえよし);12代将軍。ペリー艦隊の滞在中の将軍だったが、病に臥しており、ペリー艦隊の退去後まもなく死亡(享年61歳)。その子、家定は28歳で嗣ぐ。
徳川家定(いえさだ);13代将軍。1857年(安政4年)10月、アメリカ総領事ハリスと江戸城において会見し、アメリカ大統領の親書を受理する。力量のある人物ではなく、世界の知識に通じているとも思われない人物。このような特性は、当時の王侯教育からは期待できなかった(天璋院篤姫と結婚、享年35歳)。
徳川慶福(よしとみ、紀州家の若君)後、徳川家茂(いえもち);14代将軍(井伊直弼ら南紀派の支持)。大阪城で21歳で死去、脚気心? (公武合体論により、孝明天皇の妹、皇女和宮が降嫁する)。
徳川慶喜(よしのぶ);15代将軍、1867年4月29日、外国諸公使引見時(大阪)の印象では、これまで見た日本人の中で、最も貴族的な容貌を備えた一人で、色が白く、前額が秀で、くっきりとした鼻つきの立派な紳士であった(水戸家の家訓に、あくまで忠実であった)。
板倉伊賀守勝静(かつきよ、);好人物であるが、決して弱気を見せない主席閣老。45歳位だろうが、老けて見えた(戊辰戦争が起きると、同じく老中であった小笠原長行と共に、奥羽越列藩同盟の参謀となり、新政府軍と五稜郭まで戦かった。赦免後、明治9年、上野東照宮の祠官となる)
平山敬忠(よしただ);若年寄、外国総奉行。最近昇進した人で、狡猾そうな鋭い顔つきの、小柄な老人。素性はどちらかというと低い方だった。この老人に、うってつけのフォックス(狐)とあだ名をつけた。ハリー・パークス卿の威信をかけたイカラス号水兵殺害者の探索のために、平山は土佐、長崎へと犯人探索に尽力する(鳥羽伏見の戦い後も、幕権維持を唱え、反薩長強硬論を主張したため、慶喜から免職逼塞の処分を受ける。維新後は官界から離れ、氷川神社宮司となる)。
小笠原壱岐守、長行;老中、外国事務総裁、1867年11月14日、内々で、今後政治の大綱は有力な諸大名の合議によって立てられ、将軍の決裁は、ミカドの認可を受けなければならないだろうと告げた(函館戦争後は、潜伏していたが、明治5年7月新政府に自首、8月4日赦免された)。
石川河内守、利政;旗本であり、外国奉行の一人。1867年11月16日真夜中、江戸にいたハリー卿に、将軍慶喜の大政奉還した事を伝えた。1868年1月6日の小御所(こごしょ)会議で、将軍の廃止ばかりでなく、ミカドと将軍の間に立つ、従来の関白、伝奏、議奏の三職廃止と、代わりに総裁、議定、参与の建議をしたことをサトウに知らせた。しかし、この建議に対して、譜代大名のみならず、他の大名からも大反対があった。それは、極端論者がその行き過ぎから、ミカドの廃止さえやりかねない事の恐れからだと述べた(その後、江戸の北町奉行に転ずる。官軍側は江戸市中の取締を強化するために、石川を大目付に抜擢したが、幕府側の態度を批判して切腹する)。
勝義邦(海舟);勝安房守。将軍慶喜が大政奉還したことを知り、事を早まった。そのために、内乱が勃発する恐れがあると心配していた。慶喜が蟄居してからは幕府側代表としての情報源となる。1868年4月12日、江戸での対談で、勝と大久保一翁が官軍との談判に当たっていると話す。勝は主君の一命が助かり、家臣を扶養していけるだけの充分な収入が残されるなら、どのような協定にも応じる用意があると述べた。彼はまた、西郷に向かって、条件がそれ以上に苛酷なら、武力を持って抵抗することをほのめかす。また、内乱を長引かせるような過酷な要求は、必ずや西郷の手腕で阻止できると信じていた。ハリー卿に対しては、ミカド政府に対する影響力を行使して、戦禍拡大を未然に防いでもらいたいと願い出た。ハリー卿も、再三この件で尽力した。勝が話した最も驚くべきことは、同年2月に前将軍、徳川慶喜の閣老とフランス公使ロッシュが対談した際、フランス側は交戦をそそのかし、フランス軍事教導団の士官たちは、箱根峠の防御工事やその他の軍事上の施設建設を執拗に勧告したことである。そして、勝と大久保一翁の二人の生命を狙う、幕府側の凶手を免れれば、事態を円満にまとめることができると話す。その後、サトウに対するお礼として、自分の乗馬伏見号を、帰国の際には、自分の脇差(小刀)を餞別として贈った。
以下交渉の過程で知り得た幕府の要人は数多い。個人的なつながりが強い方だけ紹介する。
白石島岡;下総守。神奈川奉行から新潟奉行へ。1867年7月、新潟港視察時再会する。横浜時代と違って、まるで気性が変わったように、大変丁寧で快活であった。あの時はやむを得ず、貴殿に反対意見を出さなければならなかったが、今思えば馬鹿げた議論であったと、暗に後悔の様子を示した。以前と全く情勢が変わり、我々も本当に親しくなり得たのであると話す。その後、この白石老人とは、東京で交際を新たにし、謡(うたい)の意味を講釈してくれた。彼の息子はサトウの図書係りとなったが、サトウの家で死去する。死因の記載はない。
2)朝廷
二条斉敬(なりゆき);関白、賢明、かつ、善良な人物ではあるが、あまり幕府の勧告を入れすぎるきらいがあった。
岩倉具視;1868年1月3日(慶応3年12月9日)、京都の小御所(こごしょ)で行われた国政会議では参与。ハリー卿と共に、京都でミカドに謁見する前の同年3月22日、岩倉侯を訪問する。厳しい顔つきの、老けて見える人物で、言葉に腹蔵はなかった。ハリー卿に向かってミカドや公卿は、これまで外国人を忌み嫌っていた。幕府が開国に賛成している際に、夷的排斥を唱えてきたことは事実だが、これも今や全く一変した。英国は、列国に先んじてミカドが主権者であることを承認した。これに対して、特に感謝しなければいけない。ハリー卿が退席した後、通訳を仰せつかった伊藤俊介に向かい、朝廷の外国人に対する従前の態度を、あまり露骨に話し過ぎて、相手に気を悪くさせなかったかと、しきりに心配していたという。サトウが1869年2月帰国する際、外国公使たちとの間の通訳の労をねぎらって、美しい蒔絵のキャビネット(用箪笥)を贈った。
東久世通禧(ひがしくぜみちとみ);都落ちした7名の公卿の一人。参与兼外国事務取調掛、1868年2月8日、兵庫で外国公使たちに重大な通告をする。日本の天皇は、将軍徳川慶喜に対し、その請願で政権返上の許可を与えた。今後我々は、国家内外のあらゆる事柄について、最高の機能を行使するであろう。したがって天皇(ミカド)の称号が、従来条約締結の際に使用された大君(タイクーン)の称号に取って代わることになる。今後、外国事務執行のため、諸々の役人が我々によって任命されつつある。条約諸国の代表は、この旨を承知してほしい。当然、フランス公使ロッシュは、嚇怒して、こうした人々に任せてはならんと反対意見を出した。日本人としては小柄、眼光は炯々とし、歯は不揃いで、宮廷貴族がつける黒い染料(おはぐろ)はまだ、すっかりは取れていなかった。話す時、どもる癖があった。
沢主水正(さわもんどのかみ)、参与兼外国事務総督沢宣嘉;七卿落ちの1人。1868年3月1日、長崎裁判所総督になるために、伊達宗城(むねなり)に連れられ紹介された。悪党面とは言わぬが、相当な面構えの、それでいて、人を引き付ける良いところがあった。2年後、外務卿になった時は、この人物を大好きになった。
井上石見(井上長秋);近衛家家士として岩倉具視と倒幕を策した人物、1868年8月22日、中井弘(後述)の下を訪ねると、すこぶる愉快な薩摩人が来ていた。井上は蝦夷の島(北海道)の資源開発に大いに興味を持っていた。彼は蝦夷を日本の植民地として、ゲルトナーというドイツ人の監督の下に、ヨーロッパ式の農法を輸入する計画を持っていた。彼との話し合いで、最も興味のあったのは江戸へミカドを移して、これを帝都としなければ、北方の諸藩の反逆を鎮めることは不可能だということだった。
3)薩摩藩
西郷吉之助;1865年11月、兵庫港で、薩摩の汽船に乗っていた薩摩左仲と名乗る、炯炯とした黒い目玉の、片腕に刀傷がある、逞しい大男が寝台の上に横になっていた。西郷吉之助との初めての出会いである。1867年1月12日鹿児島、宇和島訪問後、兵庫に投錨した際、西郷吉之助と再会する。2年前の薩摩左仲の名前を披露すると、大笑いした。この人物は甚だ感じが鈍そうで、一向に話をしようとせず、サトウも些か持て余した。しかし、黒ダイヤのように光る大きな目玉をしていて、しゃべる時の微笑には、何とも言い知れぬ親しみがあった。政事談議で、一橋慶喜について、乞食のような浪人大名に等しかった男が、一昨日将軍職を拝命した。そして、外国代表を大阪に招くつもりであると教えてくれた。一橋は大いにミカドの寵を受けており、それを仕組んだのは老中板倉勝静(かつきよ)だと告げた。また、若年の弟、民部大輔をフランスに全権大使として派遣しようとしている。近来、幕府が勝手なことをやっていて、日本を滅ぼすことは座視できないと、我が主君(島津久光)は申している。ミカドが大名家の雄藩を京都に招いて、政治を行うとばかりに思っていたが(諸候会議)、幕府にはそんなつもりはないことがわかり、越前(福井藩前藩主、松平慶永)は退去してしまった。兵庫開港については、反対ではないが、日本全体の福利となるよう開港することを願っており、幕府の私利のために開くのは反対である。ではどのような開港を望んでいるのかと質問すると、兵庫に関する一切の問題は、5ないし6名の大名による委員会の手にゆだねる。そうすれば、幕府が利益を独占し、勝手な行動などはできない。兵庫は各藩にとっても重要な港である。各藩はみな、大阪の商人から金を借りている。この借財の支払いで、毎年郷里の産物を大阪に送らねばならない。兵庫が横浜と同じやり方で開港されれば、藩の財政は大混乱をきたすだろうと返答した。同年8月24日、大阪城で、将軍慶喜がフランス公使ロッシュ引見2日後、パークス卿を引見する。その日西郷が来て、会談の内容と意見を求められた。西郷はこの時の会談について、薩摩の大久保一蔵に手紙を送っている。この手紙は維新後、岩倉具視の侍従、旧友の松方正義から、岩倉侯の書類の中にあった原本の写しを、明治39年に頂いたものである。そこには、次のようなことが書かれていた。私(西郷)は、フランス人による日本の事態の解決策について、討議したいと切り出す。サトウは、フランス人は日本を、西洋各国のように単一に統一された政府を作り、大名たちの権力を排除する必要がある。それには、まず、薩摩と長州2国を打破し、この2国を征服するための援助を惜しまないだろうと話した。この点について、サトウの意見を求めると、前2回の長州征伐からもわかることだが、長州1か国さえ打ち負かすことができなかった幕府が、大名全部の権力を奪うことは、到底できるものではないと答えた。さらに、西郷はこのように弱い幕府を、どのような手段で外国は援助するのかと問うと、サトウはその質問には、一語も発することができないし、また、それを論証することも不可能であると返答した。しかし、フランス側は、装備を備え、戦争に訴え先端を開く考えであり、軍隊を派遣するつもりだろう。その際、英国が防御の軍隊を派遣するという報が広まるなら、フランス側の補助部隊は移動が不可能になる。そのためには、英国との充分な協力体制をとることが肝要であると述べた。英国の考えは、まず日本の皇帝が政権を掌握して、諸大名をその下に置き、政体を万国の制度と等しいものにする。これが何よりの先決問題である。先ごろ、英国の君主が、孝明天皇の崩御のことを知り、哀悼の意を表された書簡を幕府に送ったが、答礼がない。また、外国人を京都に入れると、穢れになるなどと言っているがよくない。確固たる政治体制のもとに、万国との通常の関係を維持することが肝要である。もし英国と相談することがあるなら、自分(サトウ)に知らせてほしい。援助を頼むなら、自分は引き受けるつもりである。西郷は之に答えて、我々は日本の政治の改革には、自ら努力する覚悟であり、外国人に対して、弁明の言葉もない次第であると述べた。また、サトウは、フランス人は横浜で利をむさぼり、自分勝手な契約を結んでいる。英国は貿易で立っている国なので、貿易を妨げるいかなる試みにも、絶対に反対である。最後に、幕府に対する言葉使いは、大いに軽蔑的であったと結んでいた。その翌日8月25日、サトウは京都の情勢を聞くために、薩摩屋敷へ行き、西郷と再度会談する。そこで西郷は幕府の代わりに、国民議会を設立すべきであるといったので、大いに論じた。また、幕府は大阪と兵庫の貿易の全部を、日本人豪商20人からなる組合の手にゆだねて、幕府自らこれを独占する計画を立てていると漏らした。これは1840年のアヘン戦争以前の広東(かんとん)の、古い組織の模倣である。この情報をハリー卿の耳に入れると烈火のごとく怒り、直ちに主席閣老に会い、この計画を放棄するよう求めた。こうした組織は、理論的にどんな長所があっても、西洋の思想とは相いれないものであり、東洋諸国がこのような組織で、英国の進路を妨げるなら、戦うことも辞さないと話した。
伊地知正治;薩摩英国戦争時、主君と別盃を酌み交わし、英国艦隊を襲撃するため部下40人を引き連れて、旗艦ユーリアラス号に乗船してきた。その後、江戸で昵懇の間柄になる。
五代才助、友厚;1863年8月薩摩英国戦争の際、薩摩藩青鷹丸の船長で捕虜となる。気品のある容貌のすこぶる立派な男子。1865年3月(慶応元年)藩命で英国に留学した1人、気品のある容貌のすこぶる立派、後に、明治元年(1868年)外国事務判事、初代大阪税関長、政府に大阪造幣局の設置を進言。明治2年新政府の参与を任じられたが、官を辞し、実業界へ。金銀分析所設立、明治4年大蔵省造幣局設立、明治6年弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立して、日本の鉱山王となる。明治9年、堂島米照会所設立。明治11年、大阪株式取引所(現、大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現、大阪商工会議所)初代会頭に就任。
新納刑部(にいろぎょうぶ);五代才助らと英国に留学した家老。1867年1月、長崎訪問の帰りに薩摩藩を訪問し、新納刑部、島津伊勢(久光の弟)らと会談する。その席で、薩摩藩主(久光)が兵庫開港に反対する上奏文を提出した事実を知る。その晩、新納刑部の自宅を訪問し歓待を受けた。新納の話の模様から、今後、薩摩と長州は提携して幕府と対決することが察せられ、この2藩が英国と親善関係になっていたことは幸いだった。この薩摩藩訪問視察中、薩摩の人々は、文明の技術に長足の進歩を遂げつつあるように見受けられた。そして、非常に勇気があり、性格が素直であるという印象も受けた。その後、同年9月の長崎では、浦上村で多数のキリスト教教徒が逮捕されたと教えてくれた。平山敬忠(前述)は赦免するのではと話したが、新納自身は反対の意見を述べ、幕府を非難する的にしたい様子だった。維新後は司法省判事歴任。
島津伊勢;島津三郎(久光)の弟、美青年。将軍の長州征伐に薩摩藩が出兵することに反対する上奏文を藩主に代わって書いた。また、そこには、薩摩藩が兵庫開港に反対することも書かれていた。
吉井幸輔;最初に西郷吉之助とあった舟中で会っていたが、1867年の大阪訪問時再会する。小柄だが、非常に快活で、薩摩なまりを丸出しにしてしゃべった。
小松帯刀;宇和島藩訪問後、1867年2月9日横浜から兵庫に到着、2月11日初めて大阪を訪問する。吉井幸輔と小松帯刀の両名を、宿泊先に招待した。小松はサトウが知っている日本人の中で、一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似あわず、政治的な才能があり、態度が人に優れ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。顔の色も普通よりきれいだったが、口が大きいのが美貌をそこねていた。翌日、答礼の形で、書記官ミッドフォードと薩摩の蔵屋敷(物産扱所)を訪ねた。そこで、吉井と小松から、ミカドの崩御は2月3日と公表されているが、実は1月30日で、天皇の息子(睦仁親王15歳)が即位したことを告げられた。また、幕府を倒すことは、薩摩及び薩摩と行動を共にしている諸藩の本意ではない。ただ幕府の権力乱用を防ぐに過ぎないのだから、この旨をハリー卿に伝えてほしいと頼まれた。また、彼らは天皇が、日本の実際上の統治者に復帰することも望んでいた。そして、幕府が兵庫開港の実現を本心から欲していない理由は、兵庫の開港によってミカドや廷臣の知性が、急に光明をあびるに至ることを恐れるからだ。また、もしハリー卿が来て、ミカドに条約の締結を申し込むなら、諸大名は直ちにこれに同意の旨を通告して、この大計画の遂行に協力するために京都へ参集するだろう。そして、ハリー卿がこの程度の力を諸大名に貸してくれさえすれば、それで足りるのであって、それ以上の事は自分たちの力でやり遂げようと話した。維新後の1868年8月23日、小松と中井弘(後述)と会食した。小松は英国海軍士官の雇用問題を取り上げ、明らかにそれらの士官を、解雇したがっている様子なので、解雇するよう勧めた。その後小松は、士官はそのままの職にとどめ、下士官や水兵は、英国に送り返すことにしたいと述べた。
松木弘菴、後に、寺島陶蔵(宗則)、神奈川県知事、外務卿;医者で1862年の第1次日本遣欧使節に参加。1863年8月の薩摩英国戦争で青鷹丸乗船中、五代才助と共に捕虜となる。新納刑部、五代才助らと1865年3月、英国に留学し帰国したばかり。はじめ、幕府と内通しているのではとサトウは疑っていた。1868年1月14日、大阪の薩摩屋敷で面会する。尾張と越前がまとめ役になっている、前将軍慶喜の領地返上問題が解決するまで、サトウは、ミカドの親政を諸外国に公表するのを延ばしたほうが良いと伝えた。また、会津と桑名だけが、海路帰藩するために下阪せよとの勅名を受けていたが、この2藩だけで大阪へ下ることを欲しなかったので、慶喜も同行することが許されたと述べた(その後の会津藩を、悲惨な運命に導いた陰謀?)。新政府は、慶喜の返還すべき領土を、国家の歳入の基本とするつもりだ。また、土佐、その他の諸藩、各大名も、それぞれ分に応じて犠牲を供出すべきと発議があったが、薩摩はこれに反対したと述べた。
柴山良介、南部弥八郎;1867年5月、大阪から江戸へ駕篭に乗り帰り、公使館勤務中、薩摩藩の情勢を知るため、三田の薩摩屋敷に出入りしていた。翌年の1月19日、不穏浪士掃討のために、江戸三田の薩摩藩邸の焼き討ち事件がおこる。伏見鳥羽の戦いが始まる8日前である。サトウの親しい友人であった柴山は、捕われの身になり、自分が頭目であると自供し、持っていたピストルで頭部を撃ち自殺する。
大久保一蔵、利通(薩摩藩家老、内国事務係り、参与、維新後、第3代大蔵卿、初代内務卿、1871年岩倉使節団の副使として外遊);1868年2月20日、前年、進物のやり取りをしていた大久保一蔵を初めて訪ねた。歩兵7千が箱根の方へ、5千が、中山道の山道に向かって出動しつつあると教えてくれた。また、薩摩、長州は戦争継続を決意し、参与の間では完全な一致をみている。最初は武力行使に反対していた越前、肥後も、今では他の諸藩と行動を共にしつつある。最近まで会計係り、参与で、徳川の味方だった大垣の大名(戸田氏供、うじたか)は、江戸討伐軍への即時出動を希望する旨を表明した。おそらくミカド(睦仁親王)も親征されるであろうし、これによって、反軍の士気は大いに阻喪する。そして、フランス公使ロッシュの帰国により、慶喜も物質的援助を頼む人が皆無になるから、屈服の決心をするに違いない。もし屈服するなら一命は助かるかもしれない。しかし、会津、桑名は首を失うことは免れまい。その後、英国の議会制度、関連した行政府の機能、政党の存在、下院議員の選挙などについて、できるだけ丁寧に説明した。同年8月23日、この年の初め、大久保が、京都から大阪への遷都を提案したことを知る。その後、江戸を政治の中心とし、その名を東京としたが、そこには彼の影響が大きかった。大久保はすこぶる無口の性質であった。その後の彼からの唯一の情報は、宇和島藩、前藩主伊達宗城(むねなり)が仙台に行き、伊達家とその頭首に当たる伊達義邦を説得して、会津に対する援助をやめさせることになったと教えてくれた。
中井弘、弘蔵(後藤久次郎);後、京都府知事、鹿鳴館の名付け親、1868年3月23日、京都でミカド(睦仁親王)に謁見するため、ハリー卿一行は、宿泊先の知恩院を出て、皇居に向かう際、四条縄手通りで2名の暴漢に襲われた。付き添っていた中井と後藤象二郎がこの暴漢の一人(元京都代官小堀数馬の家士、林田衛太郎)と切り会い首をはねた。後、英国ビクトリア女王からこの両名に対する謝礼の品、飾りのついたサーベルを頂く。その後、外国事務係りになった。実に快活、陽気な男で、いつも愉快な冗談が口をついて出た。宴会をする場合は、外国局の太鼓持ちというあだ名がついていた。
4)長州藩
高杉晋作は、第Ⅱ章、英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析でも紹介したので、省略する。
木戸準一郎(桂小五郎、木戸孝允たかよし);外国事務係、参与、文部卿、1871年岩倉使節団の副使。1867年1月、薩摩藩訪問中、鹿児島湾には、長州藩の“オテントサマ”という小汽船が碇泊中で、木戸準一郎が今夜10時に島津三郎(久光)と、翌朝3時に主な家老と会談する予定であると、新納刑部から聞き出す。サトウの友人、志道聞多(井上馨)と伊藤俊介の消息を知りたいから、木戸に面会したいと申し入れをすると、その宿舎を教えてくれた。しかし、日程の都合で会うことはなかった。同年9月12日、土佐藩を訪問し、山内容堂、後藤象二郎との会談後、長崎に着く。その晩領事館に伊藤に帯同して、木戸準一郎が訪ねてきた。木戸は軍事的、政治的に最大の勇気と決意を心底に蔵していた人物だが、その態度はあくまで温和で、物柔らかであった。また、藩主をかばって、悪意も害意もない人だが、世間は大分誤解している。主君は幕府を転覆するなどという考えは夢想だにしていないと話した。
志道聞多、後に、井上馨;1863年5月12日横浜の港から、英国を目指して密航した長州五傑の1人。維新後は大蔵卿、外務卿。
伊藤俊介、後に、伊藤博文(参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事、1885年12月、明治18年初代内閣総理大臣就任);外国に対する無謀な攘夷戦争を止めさせようと、英国留学の志し半ばで、志道聞多と共に、1864年7月横浜に急遽帰国する。7月21日、サトウらの英国艦隊に志道聞多と同乗し、周防沖の姫島に上陸後、終戦交渉に当たる。1868年2月8日、東久世が兵庫で外国公使たちに重大な通告をした翌日、伊藤は、長州が小倉、石見の国の攻略した土地を、天皇に献納した。桂と自分は、更に一歩進め、長州一門の扶養に必要なものだけ残して、土地、家来、財産、すべて天皇に返上することを希望している。もし、大名全部がこれに倣うならば、現在の制度では望み得ない、有力な中央政府が出来上がるであろう。各藩の大名が、まちまちの流儀で軍隊の教練をするのを放任する限り、日本は強国になり得ない。北ドイツ連邦で、その実例が繰り返された。弱小な諸候は、より強大なものに併合されるほかはないのだと話す。2日後の2月10日、伊藤が神戸の町の関税管理者兼知事になると伝えられた。外国公使たちには、さして高官でない伊藤のような人物が、こうした重要な二役の兼任に適しているか、また、一般の人民が容易にそのような人物に服従するのか、奇妙に感じられた。サトウは、日本の下層階級は、支配されることを大いに好み、機能をもって望むものには、相手が誰であろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。その上、伊藤には英語が話せるという大きな利点があった。さらに、もし、両刀階級の者(侍)を日本から追い払うことが出来たら、この国の人民は服従の習慣があるので、外国人でも日本の統治は、さして困難ではなかっただろうと述べている。
遠藤謹助;1867年9月、長崎で伊藤俊介から長州5人男(Chosyu Five)の一人を紹介された。以後明治維新前後の長州藩との連絡係りで、後、造幣権頭(ごんのかみ)となる。
5)土佐藩(高知県)
後藤象二郎(土佐藩家老);1867年8月5日、英国軍艦イカラス号水兵2名が長崎で殺害された。犯人捜索のために、幕府の平山敬忠(よしただ)と他の2名の役人が先に、土佐藩へ派遣されていた。阿波からパジリスク号で9月3日土佐へ。後藤象二郎らとの会談で、犯人は土佐藩士と決めつけていたハリー卿との間で激論があり、その間を取り持った平山は、すっかりしょげかえってしまったとある(実際の犯人は1868年末に、筑前藩の者だと判明する)。イカラス号犯人捜索会談後、パジリスク号艦上の会談で、彼は英国を模範とした国会、憲法を作ろうという考えを述べ、西郷もこれに似た考えを持っていると話した。そして、幕府が大阪と兵庫の外国貿易を統制しようと、組合(ギルド)の結成を計画している。その計画に対して、後藤はさんざんに罵倒した。サトウは、これまでに会った日本人の中で、最も物わかりの良い人物の一人であるが、西郷のほうが人物の上では、後藤より優っていたと述べている。後藤に対しては、ハリー卿も気に入って、互いに永遠の親善を誓いあった。同年11月23日ごろ、後藤からの手紙(薩摩藩、中井弘が持参する)が届いた。そこには土佐藩から将軍に対して、従来の方針(大政奉還?)で進むように勧告し、合わせて種々の改革を提案するものであった。最も重要なことは、両院からなる議会の開設、主要都市に科学と文学の学校を設ける、諸外国と新条約の商談を行うことなどが書かれていた。手紙を持参した中井らは、サトウに議会の運用に関する詳細な知識を求めたが、今度兵庫開港で大阪に行くので、その間の事情により詳しい、上席の書記官ミッドフォードから、議会の知識が得られるよう紹介すると話した。
山内容堂(豊信とよしげ)、前土佐藩主;1867年9月5日、ハリー卿が帰ったあと、容堂と後藤との会談では、欧州のルクセンブルグ問題(ナポレオン三世がルクセンブルグをオランダから買収しようとしたが、プロシャがこれに反対し、ロンドン条約でルクセンブルグは永世中立国となった。坂田注)、憲法、国会の機能、選挙制度などについて質問してきた。彼らの心底には明らかに、英国の憲法に似たものを制定しようとしていた。そして、ミカドに仕えて、日本の議会設立に力を貸してもらいたいと頼まれた。宴会のあと、等身大の男女の解剖模型が並べられ、後学のためにバラバラにして説明してくれた。容堂は背が高く、少しあばた顔で歯が悪く、早口でしゃべる癖があった。大酒のみのせいで、少し体が悪かったようだった。彼は偏見にとらわれず、その政治的見解も決して保守的なものではなかった。しかし、薩摩や長州と共に、あくまで変革の方向に進んでいく用意があったかといえば、それは疑わしかった。書記官ミッドフォードの回想録では、1867年12月10日の小御所会議で、徳川家の200万石の領地の引き渡しが強行されようとした時、容堂公はそんなものを没収しても、国家の収入の中核としては何の役にも立たず、不合理だという意見を述べた。容堂公は、すべての大名は藩の所有する財産を国に引き渡して、自身の為には相応の地位を維持するに足る、一部の資産を残すにとどめるべきという提案もした。この提案が実行されれば、各藩は陸軍、海軍を維持する必要性から解放されるわけで、領地を手放す犠牲を償っても、余りあると予見していたことになる。薩摩やその他の諸藩は、初め、時代遅れの封建制度にまだ執着しており、この案には尻込みしていた。1869年3月5日(旧暦1月23日)の“太政官日誌”に、先祖代々の広大な領地を朝廷に返納するという、最初の記念すべき声明書があり、毛利宰相中将(長州)、島津少将(薩摩)、鍋島少将(肥前)、山内少将(土佐)の署名がある。そして、この声明書は、従来の各藩ごとの規制の、廃止につながるものとなった。
陸奥陽之助(宗光)、紀州生まれの若い土佐藩士、1867年1月15日、外国公使のミカド政府承認に関する問題を論じた。我々は(サトウら)、慶喜から引き続き政務をとると聞いているが、京都側からはまだなんらの通知を受けていない。もし、京都政府が国政の指揮を執るつもりなら、外国事務の引き継ぎを公使に通告する旨を、あらかじめ幕府に通達し、次いで各国公使を京都に招かなくてはならない。こうして、初めて、ミカドの地位が中外に宣明されることになると。陸奥は、自分は後藤の使者としてきたわけでない。陸奥個人の意見としては、まず皇族の一人が大阪に下って、城内で外国の諸代表と会見を行い、その席で、徳川頭首が外国事務の管理を辞任する。次いで、皇族がミカドの政策について宣言を行う。もちろんその場合は、大名と大名の軍隊がその皇族を護衛して下阪することが必要だ。サトウも賛同する。陸奥の依頼でこのことは、誰にも漏らさぬよう依頼された。
6)宇和島藩(愛媛県宇和島市)
井関斎右衛門;1866年12月23日、始めて長崎訪問する。訪ねてきた井関斎右衛門から大名会議(諸候会議、第一の議題は長州藩に対する懲罰)は当分延期となったという情報を得る。兵庫開港は、四国では半分の藩が賛成だが、九州の人々は長崎の衰微を心配して反対している。また、一橋(慶喜)はまだ、将軍職とそれに付随する宮中の位階を得ていないと話す。そして、長州に対する意見を求められたので、英国は長州と和解している。日本人の内輪喧嘩には、一切干渉することを好まないと伝えた。その後、彼は明治初年、横浜知事となる。
伊達宗徳(むねえ);1867年1月5日鹿児島を離れ、1月6日宇和島湾に投錨する。そこに小舟に乗った藩主、伊達宗徳(むねえ)が出迎えた。当時32歳、やや中背のかぎ鼻の貴族的な顔立ち、立派な容姿をしていた。
伊達宗城(むねなり、前藩主、伊予守);四国の小領地の藩主にしては、もったいない程の有能な藩主である。1月7日風雨の中、藩主宗徳と来艦、顔立ちのきつい、鼻の大きな、丈の高い人物で49歳。大名家の中でも、一番の知恵物の一人といわれていた。この隠居は幕府とフランス公使の間で、きわめて怪しい親交が結ばれていると告げた。この隠居が艦を離れると、藩主たちの妻子たちが交代で来艦し、恐れる様子もなく見学していった。その晩は砲兵隊長入江の自宅に招待され、畳の上で宿泊する。翌日は射的場で英国士官たちと討ち比べをする。その晩は藩主の御殿に招待された。祝宴の最中、政治談議が始まり、サトウが書いた“英国策論”を読んだと告げられた。そして最後には、この前藩主は上機嫌で、英国士官たちの踊りに加わり、2人の家老と一緒に千鳥足踊りを披露した。後、新政府の閣員となり、外交団と朝廷との重要な交渉役、情報源の一人となった。
7)阿波藩(徳島県)
蜂須賀斉裕(なりひろ)、阿波守;1867年8月31日、阿波訪問。年の頃、47歳ばかり、中背で、少し痘痕はあるが、上品な風貌をしていた。態度はぶっきらぼうで、尊大であったが、至って機嫌がよかった。
蜂須賀茂韶(もちあき)、淡路守、斉裕の世子、22歳ぐらい、身長は父より少し高いぐらい。温和な、肉付きの良い顔をしており、態度も温厚かつ控えめで、父親に対しては、大いに敬意を払っていた。宴席の後は、家臣たちの狂言や演劇が催された。藩主は提督を父、ハリー卿を兄と呼んだ。進物は一行の召使いまで行き届き、大変満足した。翌日は、500人ほどの家臣たちの観兵式が披露された。帰り際、ハリー卿は藩主と世子に指輪を贈り、提督が藩主に指輪をはめてあげたところ、大変喜んだ。後、1869年1月2日、江戸城でのミカドの外国公使との謁見では、重要な役職につき、外国公使たちを出迎えた。
速水助右衛門;大阪の阿波藩留守居役、1868年3月8日、土佐藩の老侯山内容堂が京都で重体との知らせを届け、公使館医務官のウイリスに診療を願うためにみえた。阿波守に送った砲術書の返礼に絹布の進物を持参した。そして、あの友情の深い親切な老紳士(蜂須賀斉裕)が1月30日に逝去したこと知らせた。そして、江戸の情報を教えてくれた。
8) 肥前藩(佐賀県)
松平閑叟(鍋島斉正、後、直正);前藩主。1867年4月29日、大阪で将軍慶喜からハリー卿へ紹介された。その時、47歳、年よりも老けて見えた。顔つきがきつく、たえず両目をしばたたきながら、時々思い出したように、ぶっきら棒な調子でしゃべった。彼は日和見主義者で、大の陰謀家だとの評判だったが、はたして、革命の瞬間まで、その去就が誰にもわからなかった。二股膏薬との呼び名があった。しかし、倒幕後、ヨーロッパに使節として派遣する代表者の助言を求められたので、東久世より、伊達か岩倉か、それともこの閑叟あたりが、適任者などと話した(明治4年11月12日、総勢107名の岩倉使節団となる)。
9)肥後藩(熊本県)
細川良之助(藩主の弟);彼は肉付きの良い、丸顔の、年の頃25歳ぐらい、聡明な人物であった。彼は薩摩藩には、属していないので、政治の話になると、サトウは口をつぐんだ。1868年6月ごろ、数名の肥後藩士が訪ねてきて、これから北方の津軽へ行くところだと述べ、封建制度以外のいかなる制度も日本には受け入れられないなどと述べた。そして、肥後藩が密かに若松に使者を送って、会津と西国および南西諸大名との和睦を成立させようと試みたが、これに対して、会津は事態はすでに手遅れで、紛争中の諸問題は剣によって解決する以外に道はないと答えたと教えてくれた。
10) 久留米藩
1866年12月23日、長崎滞在中、久留米藩の医師今江栄、永田忠平、時計製造人だった田中このえ(その後、熟練した機械技師となり、日本の汽船2隻の汽缶、ボイラーを組み立てた)などと会食する。この席で、兵庫開港を反対する主な理由は、兵庫以西で産出され、久留米で消費される茶が、兵庫に集められ、輸出されぬかと案じていた。サトウは外国と戦争になると、京都が攻撃の的となると話すと、酔った勢いで永田は、京都を攻撃してはならぬ。幕府を倒せと大声で叫んだ。久留米の人々は、日本の西部にみなぎっている感情に共鳴しているように見受けられた。
11)会津藩
松平容保(かたもり);1868年1月8日、大坂城内で、慶喜とハリー卿との会見時の印象では、年の頃32歳、中背で痩せており、かぎ鼻の、色の浅黒い人物であった。
梶原平馬(家老);1867年2月9日、大阪で吉井幸輔と小松帯刀との会談後、サトウの執事野口を、京にある戦闘部隊で最も精鋭部隊を出している、会津藩の人々と面会しようと出張させた。2月17日の晩遅く、梶原、倉沢右兵衛、山田貞介、河原善左衛門の4名が訪ねてきた。彼らは送り物として、数巻の淡青色の絹の紋織と目録(ハリー卿、ミッドフォード、サトウに後から送る刀剣やその他の品物)を持参してきた。サトウらはお返しの品物がなかったので、シャンペン、ウイスキー、シェリー、ラム、ジンなどでもてなした。瞬きもなく飲み干したのは、家老の梶原で、彼は色の白い、顔立ちの格別立派な青年で、行儀作法も申し分なかった。彼らはまた、軍艦を見たがっていたので、ヒューエット艦長への紹介状を書いた。これが機縁となって、会津藩の人々とも親密な間柄になる。その後の戊辰戦争になった後でも、会津藩の友人たちは、英国の望むところは、一つの国民としての日本人全体の利益であって、国内の党派のいずれにも組するものでないと、はっきりと見抜いていたので、英国の演じた役割を少しも恨まなかった。
野口富蔵;はじめ英語を学ぶために、函館の英国領事、ヴァイスに師事する。その後、1865年秋、勉強を続けるために横浜にきて、サトウの執事となる。明治2年、サトウの帰国と共にイギリスに渡る。最初の2年間の留学費用はサトウが負担する。帰国後は軽微な公職につく。野口にとっては割合に高い地位だったが、もったいぶった顔もせず、あくまでも正直で、誠実な男だった。1885年死去したことを知る。