2014年1月24日金曜日

INDEX

はじめに
第1章 要約
第2章 英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析
第3章 サトウが見た人物評
4章 若松城陥落
第5章 耶蘇教禁令について
第6章 外国人襲撃、殺傷事件
第7章 ウイリアム・ウイリス;英国公使館付医師
参考図書

はじめに

日本は徳川幕府による238年の間、限りなき太平の夢をむさぼっていた。サトウの言葉を借りれば、日本は森の中に眠れる美姫にも似ていた。国家太平の夢を守る役職の人たちは、姫の安眠を妨げるハエを、扇で追うよりも容易な仕事をしていたのである。姫の夢が、活動的で旺盛な、西洋人の出現によって破られた時、昔からのしきたりに凝り固まった、年老いて皺くちゃの番人たちには、その職責には耐えられなくなった。そのために、日本を取り巻く、様々に変化する情勢にうまく対応できる、もっと適任な人たちに自分の席を譲らなければならなくなったのである。また、各大名家も世襲制度の弊害により、藩主の行使する権力は、単に名目上のものにすぎなくなった。家臣の中でもより活動的で、才知に富んだ者(その多くは、身分も地位もない侍)が、大名や家老に代わって権力を行使出来るようになったとき、驚くべき1868年の革命(明治維新)が出現したのである。
原書“A Diplomat in Japan Sir Ernest Satow)”は、1921年(大正10年)ロンドンのシーレー・サービス会社から出版されたが、戦前のわが国では禁書として取り扱われていた。起草されたのは、1885年、シャム(現タイ)の首都バンコックへ英国公使として任地していた時である。また、後半の部は、日本に初めて任地してから、50年近くたった1919年後半の執筆で、主として日記を補足しながら完成させたと述べている。そこに記載されていることは、1862年(文久2年)9月から、1869年(明治2年)2月に一時帰国する迄の、6年6か月間の幕府、薩摩や長州藩との交渉、その他の大名家、幕末に活躍した志士たちとの交流、情報交換などの回想録である。サトウの生い立ちは、1843年6月30日、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つスウェーデン人の父デーヴィッドと、イギリス人の母マーガレットの三男としてロンドン郊外のクラプトンに生まれた。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業後、1861年英国外務省の通訳官として入省し、19歳になった1862年9月2日、日本に向け上海を出港し、9月8日横浜に着任した。


第1章 要約

日本語を操る幕末の英国外交官サトウは、佐藤でなくSatowである。てっきり日本人との間の二世かと早合点していたが、シナと日本の通訳生3名の外交官試験に、トップで合格した正真正銘の英国外交官である。薩摩英国戦争や長州との下関戦争にも通訳官として参戦し、また、関東以西の各地(四国、九州まで)を英国公使代理の名代で、駕篭や馬に乗り、藩主の大名たちを訪問する。一方寄席見物(忠臣蔵や皿屋敷など)などでは、聾桟敷に置かれながら、その料金が、外国人は高額なことに納得がいかず庶民の席へ移動し、また、渡し船では、庶民の料金の支払いのまま、寄席が始まるまで、また、船の動くまで追い立てに動ぜず、相手が根負けするまで居座っていたなど、正義感あふれた性格が面白い。
維新前年の1867年5月には、大阪から横浜への帰りは、船で帰らず、駕篭二挺を自前で購入し、小田原迄東海道を乗り継いだ。この道中の“東海道膝栗毛”では、天竜川を渡った掛川近くで、この先で、“bar bare”の一行、即ち、例幣使(日光への勅使、出会ったものは、大名でも駕篭を降りて土下座しなければならない)と遭遇するかもしれない。そのために、役人から横道にそれることを薦められた。”一外交官の見た明治維新“の訳者、坂田は野蛮人(barbarian)と訳しているが、”無礼無礼“の一行と役人は伝えたと思う。その夜半、サトウらの宿泊先に、例幣使の家来が”barbarian“(毛唐?)を出せと襲撃してきたとある。しかし、この襲撃事件では、相手を懲らしめ、庶民の喝采を得たとある。この道中の警護隊長は、その後サトウの部下として採用された。同年7月には、新潟開港の準備のために、横浜から軍艦で函館を経由し、新潟を訪問する。佐渡ケ島では金山も見学した。その後、七尾から上陸し、駕篭に乗り陸路大阪へ向かう。その体験談は活き活きと、庶民の生活習慣、風景なども事こまかく書き残している。
風雲急を告げる1867年11月16日真夜中、外国奉行の一人、石川河内守(石川利政)が、将軍徳川慶喜が大政奉還したことをハリー卿に伝えた。12月2日、横浜からハリー卿と共に軍艦に乗り大阪(ozaka)に着くと、平和で活気に溢れていた商業都市は、両刀を帯した諸大名の家来で満ち溢れ、その上に、庶民の“Ii ja nai ka,ii ja nai ka”(isn’t it good)の踊りも加わり、騒然としていた。西郷はまだ来阪していなかった。幕府閣老との情報交換、その後、12月14日、薩摩藩の友人、吉井幸輔(サトウの人物評では、小柄だが非常に快活で、薩摩なまりを丸出しにしてしゃべり、薩摩藩との連絡を取り持った)から薩摩、土佐、宇和島、長州、芸州の諸藩の連合が成立した。これらの諸藩は主張を貫徹するために、最後まで押し徹していく。肥後と有馬がこれに同調する気配を見せている。肥前と筑前は無関心の態度を示している。そして、幕府側は京都に約1万、薩摩と土佐は、両者合わせて約半数の軍勢を京都と大阪に集めている。やがて、芸州その他の大名も軍隊を繰り出すだろう。幕府側の中には、長州藩を完全にやっつけるため、戦争再開を強行すべしという連中が多い。長州問題を平和のうちに解決することは至難であろう。そして、長崎で知り合った土佐の才谷梅太郎(坂本龍馬)が、数日前(12月10日)に京都の宿で3名の姓氏不詳の徒に暗殺されたと教えてくれたその後、伊藤俊輔からは、毛利藩兵士は藩主世子、毛利兵六郎(元功)と福本志摩に率いられて、京都へ上りつつある。桂と吉川監物は、領内の行政に当たるために、余儀なく、領国に留まることになったと知らされた。実際に、1500人の長州兵が12月23日、毛利内匠(たくみ)に率いられて、西宮に上陸した。
その後の1868年1月1日の兵庫開港、大阪開市、1月27日の鳥羽・伏見の戦いまでの推移は、映画の画像を見ているように、臨場感あふれ、迫真に満ちた描写が続く。
最後は、1868年11月26日(明治元年10月13日)、品川で一泊された明治天皇は、この日江戸に入られた。泉岳寺前(高輪)の、前英国公使館邸があった外務省みたいな屋敷前の広場で、この明治天皇一行の鹵簿(ろぼ)を見学した。古式豊かな廷臣たちの行進を期待していたが、警護の兵士たちの西洋風をまねた服装と、だらしのない乱髪のために、東洋風の印象が台無しにされた。しかしミカドの黒漆塗りの駕篭(鳳輦、ほーれん)はサトウたちには大変珍しかった。そして随行員の一人、旧知の伊達老侯(伊予守、伊達宗城むねなり、)が馬上から、親しみのある態度で、会釈して通り過ぎたと書かれている。そのほかに職務で、外国人殺傷事件の斬首刑や割腹の儀式にも立ち会い、その生々しい状況描写は身の毛がよだつ。外国人暗殺者の辞世の言葉は、捕えられて死刑になるとも悔いはない。夷狄を殺すことは、日本人の真の精神である。サトウは彼らの刃に倒れた外国人たちや、その報復として処刑された人々の生命も、やがて後年その実を結んで、国家再生の樹木を生じさせ、大地に肥沃の力を与えたと結んでいる。このように終始一貫、中立政策をとり続け、日本、日本人を愛し、日本の近代化に大きな貢献をした外交官である。日本を離れる際には、岩倉具視卿、東久世通禧(みちとみ)侯をはじめ、多くの要人(大久保利通、木戸準一郎、勝海舟等)、薩摩の藩候などから感謝の標しとして贈答品が贈られた。1869年2月24日、横浜から814トンのオッタワ号で、ハリー・パークス卿夫人らと、そして、終始執事として働いてくれた会津藩の侍、野口富蔵を連れて、ホーム・スイートホームの演奏に送られ故国に向かった。
サトウの日本滞在は、歴代英国公使に仕えて、1882年(明治15年)12月まで、約25年間の長期に及んだ。その間数多くの著作があり、オクスフォード大学、ケンブリッジ大学から学位を受け、また、外交官としての在職中の功績により、1895年Sirの称号を授与された。

追補、孝明天皇崩御について;

長崎から、薩摩藩、宇和島藩訪問後、横浜に帰任していたが、1867年、将軍徳川慶喜が外国代表を大阪に招くとの知らせで、再びハリー卿に随行して2月9日兵庫に停泊した。そこで、プリンセス・ロワイヤル号の艦長から、三田尻で長州藩の藩主毛利慶親(よしちか)、世子毛利広封(ひろあつ)、桂小五郎、吉川監物(けんもつ)の4人が映っている写真を頂く。その甲板上で、日本人の貿易商人から、1月30日(慶応3年12月25日)孝明天皇が天然痘で亡くなったと教えられた。数年後、その間の事情に通じているある日本人から、孝明天皇は毒殺されたと確言(assured)された。このミカドは外国人に対して、いかなる譲歩もしないことで知られていた。来たるべき幕府の崩壊によって、朝廷が西欧諸国と当面しなければならなくなることを予見した、一部の人によって排除されたと記してある。

第2章 英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析

1)サトウが着任した1862年(文久2年)9月ごろ
回顧録によると、主権者たる将軍と、2、3の手に負えぬ大名との間の、政治的な闘争である。これは、将軍が無力で、その閣老が無能なため、宗主たる将軍家を無視するに至った結果である。そして、神聖な日本の国土を“夷狄”の足で侵させ、貿易による利得を,すべて国家の領主たる将軍家の手に収めようとしている。それはまた、ペリーの日米和親条約(18543月、安政元年)と、後のハリスが結んだ日米修好通商条約(1858年6月、安政5)に対する不満を抱いた闘争であると。その後、サトウが着任した6日後の1862年9月14日,上海の商人リチャードソン殺害事件(生麦事件)、翌年1863年1月31日(文久3年)、建築中の英国公使館放火事件(高杉晋作、伊藤俊介、志道聞多ら長州藩士)が勃発する。英国の外務省は、前者に対して10万ポンド、後者に対して1万ポンドの賠償金を請求よとの訓令を、英国公使代理のニール大佐に送った。そのほか、薩摩藩主に対しては、犯人の尋問と処刑を、また、2万5千ポンドの支払いの訓令である。この時、将軍と主な閣僚は京にいて、江戸を留守にしていた。ニール大佐は江戸湾深く、艦隊を派遣する。その結果、江戸市中は大混乱になったとある。外国奉行の竹本正雅(まさつね、甲斐守)は幕閣の意向を伺うため、急遽京都に上洛する。江戸に立ち戻った5月25日ニール大佐と会談する。その席で竹本甲斐守は、英国の要求に応じ難いのは、大名たちの反対があるからと説明する。それらに対して、ニール大佐は、英国とフランスの軍隊は将軍を援助し、攘夷派を排除し、その鎮圧に力を貸すことを示唆した。また、条約を締結したからには、将軍に履行の義務があることを強く迫った。当時は、ミカドに無限の権威があることに、考えが及ばなかったからである。竹本甲斐守は、その申し出に対して、将軍の名において感謝したいが、将軍は自己の権威と兵力によってのみ、大名との間の疎隔の解決に努むべきで、外国の援助は辞退せざるを得ない。また、仮に英国が薩摩を攻撃すれば、将軍も他の大名も、薩摩と行動を共にせざる得なくなるとだろうと返答した。そのほか、幕府は、賠償金の分割払いには同意している。しかし、他の大名たちは、これらの措置を知れば、幕府に対する反抗を、より強固なものにするかもしれないと心配していた。この時期、ニール大佐は上海のブラウン少将に2千名の兵員派遣を要求していたが、軍隊派遣は不可能であり、不承知であるとの返書が届いていた。6月24日、老中格小笠原長行が、賠償金44万ドル(11万ポンド)の受け渡しと、その見返りに3港(横浜、長崎、函館)の閉鎖、在留外国人の国外撤去を諸外国代表に通告した。そして即日、2000ドル入りの箱を馬車に積み、3日間かけて支払った。この通告に対して、ニール大佐は文明国と非文明国とを問わず、あらゆる国の歴史に類を見ないことであり、これは条約締結国全体に対する日本自身の、宣戦布告にほかならないと反論する。また反面、日英条約上の責務を従来より一層“満足な、そして強固な基礎に置くために、合理的にして肯定することの手段”を速やかに公表させ、また、これを実施させることも、両国元首の可能とすることだと述べた。
2)1863年8月15日(文久3年)の薩英戦争と1864年9月5日(元治元年)下関戦争後
これまでの、幕府側との度重なる交渉の経験から、将軍の家臣たちは、上下関係が強く、また、幕府側の行為には裏表がある(後で触れるが、孝明天皇が大の外国人嫌いで、攘夷に凝り固まっていた。そのために、幕府側は勅許を得ることが出来ず、右往左往していた。筆者注)。その結果、英国外交団は、幕府側との交渉に対して、嫌悪の感情を抱き始めていた。それらに対して、薩摩藩の謝罪と賠償金2万5千ポンドの支払い(幕府からの借用金のまま維新を迎えた)、また、長州藩の英国留学生、志道聞多(しじぶんた、井上馨)、伊藤俊介(伊藤博文)の働きもあったが、下関戦争の休戦協定前後の長州人は、忠実に約束を守った。これらのことから、長州人は、信用に値すべき人たちであるとの認識を与えていた。また、薩摩人にせよ、長州人にせよ、交戦したにも関わらず、英国人の行為に対して、なんら恨みを抱く様子もなく、その後の騒乱と革命の幾年月の間、常に、英国人の最も親しい盟友となっていったと述懐している。
3)幕府側との交渉訣別
1864年9月8日、長州藩が和議を請うために、伊藤俊介の案内で、使節代表宍戸刑馬(高杉晋作)ら3名が来艦(ユーリアラス号)する。艦上に来た時、高杉晋作はLucifer(魔王、坂田は悪魔と訳している)のような高慢な態度をとっていたが、徐々に態度を変え、すべての提案をなんら反対することなく承諾した。そして、その交渉の間に伊藤は、外国船攻撃は将軍から1回、ミカドからは再三の命令を受けて行動したのだと説明し、ミカドと将軍から受け取った、外国人を日本から放逐せよとの命令書の写しを提示した。後のサトウの述懐では、前年の夏に、長州藩はミカドから攘夷の詔勅を強引に引き出した(extorted)とある。4か国代表たちは、この休戦協定の賠償金支払いは、長州一藩では不可能と判断しており、伊藤から預かった京都の命令書の写しを証拠に、長州藩が当然支払うべき賠償金を幕府に請求する。また、それらの代案として、その支払いが不可能なら、下関か瀬戸内海の一港を、通商のために開港すべきとの条件も提示した。その背景には、再着任した英国公使ラザフォ-ド・オールコック卿は、賠償金の強要よりも敵意を有する諸大名が、ミカドの名をもって絶えず行ってきた、外国との通商条約反対運動を終息させ、ミカドの条約批准を獲得することであった。また、当時は諸外国も金銭を欲していなかった。日本との関係の改善に役立つならば、いつでも喜んで賠償金を放棄したであろう。その反対運動の2大張本人、薩摩と長州藩が、外国勢力に対抗できないことを知った今、幕府は将軍の名で、日本全国を強制的に、新しい対外政策に従わせることも容易にできると思えた。しかし、真から外国人嫌いの攘夷派の筆頭、ミカドに反論できない幕府は、新たに兵庫の開港を許可するよりは、長州藩が支払うべき賠償金(300万ドル)を支払うことに、4か国代表との間の協定書に調印する(1864年10月22日、横浜)。しかし、翌年の4月、幕府の閣老から、1回50万ドルずつ6回にわたっての支払いが、不可能だとの覚書を本国のラッセル卿が知り、その指示で、代わりに、ミカドの条約批准の約束(兵庫港開港)と輸入関税を5%まで引き下げることを再度要求する。この後の、幕府の小笠原壱岐守(かみ)長行と阿部豊後(ぶんご)守正外(まさと)との幾度かの交渉でも、この4か国提案には、幕府側は承諾できず、4か国提案に屈服するよりは、むしろ第2回分の賠償金を支払ったほうがましだとの考えに至っていた。外交団には、この頃には条約の締結には、ミカドの勅許が欠かせないことを理解していたが、幕府は下関戦争後の調停条約が、ミカドの勅許を得る力がないのか、得ることを好まないのか判断ができなかった。そのために、この先進められる交渉の過程では、衰退しつつある徳川幕府の後押しをすることは、英国にとって好ましい策でなく、もはや、はっきりと将軍を見捨てなければならいとの考えに至っていった。その間、第14代将軍徳川家茂(いえもち)が建白書をミカドに提出する。そこには、一般国民のためにはもちろんのこと、ミカド自身のためにも、条約批准は必要であると奏請していた。それが朝廷側に拒否されると、将軍は江戸へ立ち返ることを決意し、大阪へ向かった。しかし、朝命が下り、江戸への帰ることの差し止めとなった。その後も、将軍後見職の一橋慶喜の更なる献言と、これに応じなければ自身も腹を切るつもりであるとの明言により、ミカドもついに通商条約批准に同意された(1865年11月24日慶応元年)近代日本が始まったことになる)。しかし、兵庫の先期開港(1866年1月1日)については、不勅許であったその結果、関税率は5%に引き下げられたが、すでに決定していた兵庫の開港は、1868年1月1日(慶応3年12月7日)まで延期されることになった。文久遣欧使節、竹内下野守らの開市開港延期談判条項の再確認となる。しかし、賠償金の残余の分割支払いは、維新後の新政府の大きな負担となっていった。後になり分かったことだが、ミカドの承認とは、外国事務処理は、将軍に委任するという、3行ほどの短い布告文書に過ぎなかった。その上、兵庫と大阪を貿易港として開く案の、削除を命じる修正条項も加えてあったのである。
ミカドは真の底から外国人嫌いで、あくまで幕府に頼りきっていたことがわかる。維新後サトウは、もし兵庫が1868年1月1日以前に開港していたら、革命派は革命の好機を逸することになっただろうと述べている。
4)18663月(慶応2年)、サトウは横浜の外国居住民あてに発刊していたジャパン・タイムズの主幹、チャールズ・リッカービーとの縁で、日本国内の旅行記、社会情勢などの記事を連載していた。その中で、幕府と締結した通商条約の恩恵は、幕府の直轄地の住民だけで、この国の大部分の人々と、外国人との間を断ち切るものである。そして、各種の公文書を翻訳している間に、将軍自身は自分を単に、ミカドの第一の臣下以上の、何物でもないとの考えでいることがわかってきた。そこで、条約の新たな改正と、日本政府の組織の改造を求める記事を掲載した。サトウの提案とは、将軍を本来の地位に引き下げて、これを大領地の一人とみなす。そして、ミカドを元首とする諸大名の連合体が、幕府に代わるものとするというものである(参考までに、すでに1863年12月、薩摩藩主島津久光主導で、将軍後見職慶喜を含めた朝廷参預による公儀政体論、参預会議が行われた。しかし、幕府の賛同が得られず、翌年3月には解体してしまう)。この社説の日本語に訳した写本が、いつの間にか日本各地に広まり、それ以後、諸大名の家臣たちは、サトウに好意を示すようになった。後にそれが、“英国策論”の表題で、大阪や京都の本屋で発売されることになる。186715の宇和島藩訪問時、前藩主伊達宗城(むねなり)との政治談議で、サトウが書いた“英国策論”を読んだといわれ、大変驚いたと述べている。そして、この前藩主から、フランスが幕府と手を結ぼうとしていると教えられた。しかし、わが国(英国)の条約は、日本国と結んだもので、特に将軍と締結したものではないと話す。そして、また、英国は日本の内政に干渉したくないので、日本人が日本人同士の国内紛争を、自ら解決するならば、それでいうことはないとも説明する。この本は幕末、勤王、佐幕派からも、英国公使館の意見を代表するものと、競って読まれることになった。
5)1867年4月(慶応3年)、老中板倉勝静(かつきよ)が取り仕切った外国諸公使引見(大阪)時、ハリー・パークス卿と将軍徳川慶喜の会見後、大阪の宿舎(長法寺)に西郷やその一派の訪問を受けた。彼らは英国と幕府の接近については、大いに不満の態度を示した。サトウは革命の機会が無くなったわけではないと、それとなく西郷に話す。
6)同年12月18日、大阪の宿舎に石川利政が訪ねてきた。そして、大名会議の日取りはまだ決定していないので、将軍慶喜が他の大名より遅れて京都に着いても、非難を受けることはないだろう。また、すでに京都に来ている大名、あるいは近く京都に到着するはずの大名が、諸事を議論して(四侯会議)、ある決定(内大臣の辞官と納地返上問題)を行なったとしても、集まった大名の数は少ないのだから、決定されたことが実行できるだろうか。それには必ずや反対が起こるだろうと話した。サトウら英国公使館側は、この石川からの話から推して、動乱は起こりそうにないとは言えないが、会議の日取りを延ばしているのは、反対派を困らせようとする幕府側の意図的な行為であると推察した。そして、20日に江戸の公使館から陸便で届いた手紙には、慶喜はもはや将軍、もしくは、それ以上の何物でもないというのが世間の見方になっていると書かれていた。距離の隔たりと口から口への風説は、時局の様相をかくも大きく変えたのであるとサトウは述べている。伊藤からは、日本国内の平和のためには、徳川家の領土があまりにも大きすぎる。そのために、その領土の一部を奪取する目的で、すぐにでも戦端が開かれるだろう。そして、兵庫、大阪の外国貿易のための開港(1868年1月1日)を、延期してほしいと要請された。また、大阪と兵庫の日本側の代表者は誰を任命したら良いかと助言を求められたので、サトウは現在の奉行ではと話すと、そんなものは危機が来れば、直ちに放逐されてしまうだろうと反駁した。この時期に至ってもサトウらには、緊急に戦端が開かれるとの確信が持てず、すぐにでも政権交代が起こるとは考えていなかったのだろう。
7)1868年4月28日、西郷が横浜でパークス卿を訪ねた時、パークス卿は、慶喜とその一派に対して過酷な処分、特に体刑をもって望むなら、ヨーロッパ諸国の世論はその非を鳴らして、新政府の評判を傷つけることになるだろうと忠告する。西郷は前将軍慶喜の一命を要求することはあるまいし、慶喜をそそのかして京都へ軍を進めさせた連中(主席閣老板倉伊賀守勝静、会津藩主、松平容保ら)にも、同様に寛大な処置がとられると思うと答えた。
8)維新後のサトウの述懐
1863年6月24日(文久3年)、英国公使代理のニール大佐が幕府側に返答した、この“強固な基礎と、合理的にして肯定することの手段”とは、第2章、1)でも触れたが、英国側から将軍に、物質的な援助の計画を暗示するものであった。もし仮に、この種の援助政策が実行されれば、将軍家の先祖伝来の地位は安定し、そして、1868年の革命(明治維新)は困難を極め、よりおびただしい流血なしには成就しなかっただろうと述べている。また、その結果、日本国民は外国の援助で、自己の地位を強化した支配者をより増悪し、そのために、将軍はより苛酷な抑圧手段を取らなければ、その地位を保てなかっただろう。また、将軍の閣老が、外国の援助の申し出を拒否する、愛国心を持ち合わせていたことは、まことに喜ぶべきことであったと称賛している。日本人は、自己の力で救済を行うことになり、革命が勃発した後も、生命財産の損失を、わずかの範囲に食い止めることができた。当時フランス公使ロッシュ氏は、幕府側を支持し、横須賀に兵器廠設立を援助し、また、徳川家の軍事組織を優れた基礎の上に置こうと、兵士を教練するため優秀なフランス士官を周旋していた。北ドイツの代理公使フォン・ブラント氏とイタリア公使ラ・ツール伯もロッシュ氏の政策に追従していた。一方、英国はラザフォード・オールコック卿の後任公使に、より献身的な公僕であるハリー・パークス卿が派遣され、中立主義を貫いた。オランダの外交官はハリー卿に与し、新任のアメリカ公使ファルケンブルグ将軍は中立の立場をとっていた。このような状況の中で、ロッシュ氏に同調して、幕府側の後押しをしなかったことは、あのように早く内乱が終熄した原因でもある。日本自身もパークス卿のおかげを被っていることを充分に知る必要があると結んでいる。そして、将軍慶喜が大政奉還した1867年11月8日(11月9日勅許が出る)の後、12月15日に開かれる予定だった四候会議で、幕府に対する新政府の要求は、政権と政権を充分に維持していけるだけの領地、200万石を引き渡せというものであった。この要求に応じれば、徳川家には、譜代大名及び大部分の旗本の領地を別にしても、なお250万石の領地が残る勘定であった。慶喜自身は同意の気持ちでいたのだが、徳川方はこれを拒絶すると共に、80万石の土地だけ引き渡して、その上に、天皇政府を維持していくための補助金は、継続して支出することにしたいと申し出た。もし、この要求に服従していたなら、徳川800万石の内、約700万石が、実際に新政府の領地になったのであるが、残余の所領を保有して、とにかく平穏にやっていけるはずであった。また、鳥羽伏見戦争が起こる前、1868年1月10日(慶応3年12月16日)外国諸公使引見時に、慶喜が置かれた状況をハリー卿に説明し、薩摩、長州との間の仲介を要請されたら、英国と両藩との親善関係からも、大阪に留まることも可能であっただろうとも述べている。

中休み;
1)当時の日本
日本人は大の旅行好きで、本屋の店頭には宿屋、街道、道のり、渡船場、寺院、産物、そのほか、旅行者が必要な事柄を細かく書いた、旅行案内の印刷物が沢山置いてあった。相当良い地図も容易に手に入り、精密な縮尺で描かれたものではないが、それでも実際に役立つだけの、地理上のあらゆる細目にわたって書いてある。東海道の行程は、京都の伏見から江戸まで、320マイルの旅で、計算上16日要する。また、その道中での、駕篭による一日の行程は、20マイル弱(1時間約3マイル)ほどであった。
サトウが着任した1862年(文久2年)頃は、幕府との重要な討議の場は江戸で行われた。横浜に居住していた外国人で江戸に行く特権は、条約で外交使臣だけに限られていた。無官の外国人は神奈川(現在の横浜市神奈川区あたり、神奈川本陣があった)と江戸との中間にある六郷の渡し場(多摩川の下流)を渡ることはできなかったのである。そこで、サトウらの若い館員は長官(ニール大佐)の江戸定期参府の随行を命じられると、うれしくてたまらなかったとある。その一行の周囲には常に、身辺の保護という名目で、その実は日本人と自由に話をさせないための、騎馬護衛兵(主に旗本の子弟)がついて回った。その後1867年(慶応3年)ごろになると、ある程度自由に江戸市中を遊覧できるようになった。外人訪問客が興味をそそられる所は、江戸市中を見渡せる神田明神や愛宕山、そして、浅草の観音堂、外国人が本を買う神明前の岡田屋書店などである。そのほか、六郷川を渡った2マイルのところに梅屋敷という観光地があり、季節の如何を問わず賑わっていた。外国人もピクニック用のバスケットを持参し、魅力に富んだ美しい乙女たちの接待を受けるため、お茶屋にも立ち寄った。また、日曜日の行楽には、横浜から馬で東海道を遠乗りし、川崎で弁当を食べて夕方帰宅する。場合にはもっと遠出して、金沢(現在の横浜市金沢区)、鎌倉、江の島まで行くこともあった。横浜から25マイル以上の旅行をする特権は、諸外国の外交代表だけに限られていた。そのために、条約の制限区域を越えて、八王子や箱根まで行くものは、命知らずと言われていた。八王子、厚木、高尾山などの街道には関所があり、通行券を見せねばならなかった。
2)貨幣価値
サトウが着任した1862年頃、100ドルは条約上311分、為替相場は214分であった。そこで、悪徳外国官吏は、毎月40%近い利ざやを獲得することができた。横浜で購入した日本語辞書が4分(1分銀4枚)、すなわち、2ドル払った。後で、本屋に行き値段を確認すると、1分半だった。自分の給仕は悪党だと怒ったとある。横浜から、神奈川(横浜市神奈川区)に行くには、湾をまたいて舟や馬で、櫓舟で行く場合は、外国人は1分の金を出して、渡らねばならなかった。現地の人は天保銭1枚でよかった。天保銭16枚半が1分とある。1867年6月、サトウが江戸に帰り、横浜の友人たちと箱根や熱海(当時旅館は2軒しかなかった)見物。人足の駄賃は箱根までの山道1人、1分と4分の3(2シリング4ペンス)、10マイルの距離ごとに、1駄が464文、人夫は233文。ところで、当時の1両は、1分銀4枚、6、600文であり、英国の貨幣では、5シリング4ペンス、2両が1ポンドに相当した。神奈川本陣の宿泊代、護衛、役人など総勢4人の宿代は、朝食、夕食、酒代一切込で、8シリング4ペンスであった。蝋燭、燃料、風呂代などを別に請求するヨーロッパの勘定書とは著しい相違があり、日本での別勘定は酒と肴だけである。チップは誰ももらうことを考えていないので必要はない。代わりに茶代として一分銀(約1シリング4ペンス)1枚を主人に渡してきたとある。そのほか、役人用の中古の引戸駕篭の値段は1分銀32枚、すなわち4ポンドもしなかったとある。同年、江戸湾を見渡せる切り立った丘の上に、高屋敷と呼ばれていた一軒家を借りた。家賃は月1分銀百枚で、6ポンド13シリング4ペンスに相当した。サトウの年俸は、1865年4月横浜の領事館付通訳官の時、わずか400ポンドであった。翌年8月、日本の閣老と会見するときの、オランダ語通訳官が500ポンドであることを知り、100ポンド増俸をハリー卿にお願いして、外務省に手紙を書いてもらった。1867年12月31日、通訳官であったサトウは、英国外務省から年俸700ポンドの日本係書記官に任命され昇進した。尚、公使の年俸は3000ポンドである(英国は1816年から、金本位制となり、1ポンド金貨は20シリング、240ペンス)。


第3章 サトウが見た人物評

数多くの要人、志士たちとの出会いや対談、そしてその時々の、当事者だけが知り得た情報交換が行われた。その際のサトウの人物評を,時代の推移を無視して、また、幕末の重要な地位の順に紹介する。興味が惹かれる人物だけに限定した。()内は筆者注。
1)幕府
徳川斉昭(水戸の前藩主、なりあき)攘夷派の筆頭。水戸家の家憲は、将軍を支持し、将軍を幇助することであり、天皇(ミカド)こそ、最高の統治を行う正当な権利者であることを、肝に銘じていた人物。また、当時のオランダ、シナとの制限付き交際以上に、外国との交際を拡大することには、強力に反対してきた。しかし、オランダ学者を密かに領内に招き、ヨーロッパの諸科学に傾倒し、古書の絵図を頼りに、フリゲート艦の建造も試みた。
徳川家慶(いえよし)12代将軍。ペリー艦隊の滞在中の将軍だったが、病に臥しており、ペリー艦隊の退去後まもなく死亡(享年61歳)。その子、家定は28歳で嗣ぐ。
徳川家定(いえさだ)13代将軍。1857年(安政4年)10月、アメリカ総領事ハリスと江戸城において会見し、アメリカ大統領の親書を受理する。力量のある人物ではなく、世界の知識に通じているとも思われない人物。このような特性は、当時の王侯教育からは期待できなかった(天璋院篤姫と結婚、享年35歳)。
徳川慶福(よしとみ、紀州家の若君)後、徳川家茂(いえもち)14代将軍(井伊直弼ら南紀派の支持)。大阪城で21歳で死去、脚気心? (公武合体論により、孝明天皇の妹、皇女和宮が降嫁する)。
徳川慶喜(よしのぶ);15代将軍、1867年4月29日、外国諸公使引見時(大阪)の印象では、これまで見た日本人の中で、最も貴族的な容貌を備えた一人で、色が白く、前額が秀で、くっきりとした鼻つきの立派な紳士であった(水戸家の家訓に、あくまで忠実であった)。
板倉伊賀守勝静(かつきよ、)好人物であるが、決して弱気を見せない主席閣老。45歳位だろうが、老けて見えた(戊辰戦争が起きると、同じく老中であった小笠原長行と共に、奥羽越列藩同盟の参謀となり、新政府軍と五稜郭まで戦かった。赦免後、明治9年、上野東照宮の祠官となる)
平山敬忠(よしただ)若年寄、外国総奉行。最近昇進した人で、狡猾そうな鋭い顔つきの、小柄な老人。素性はどちらかというと低い方だった。この老人に、うってつけのフォックス(狐)とあだ名をつけた。ハリー・パークス卿の威信をかけたイカラス号水兵殺害者の探索のために、平山は土佐、長崎へと犯人探索に尽力する(鳥羽伏見の戦い後も、幕権維持を唱え、反薩長強硬論を主張したため、慶喜から免職逼塞の処分を受ける。維新後は官界から離れ、氷川神社宮司となる)。
小笠原壱岐守、長行;老中、外国事務総裁、1867年11月14日、内々で、今後政治の大綱は有力な諸大名の合議によって立てられ、将軍の決裁は、ミカドの認可を受けなければならないだろうと告げた(函館戦争後は、潜伏していたが、明治5年7月新政府に自首、8月4日赦免された)。
石川河内守、利政;旗本であり、外国奉行の一人。1867年11月16日真夜中、江戸にいたハリー卿に、将軍慶喜の大政奉還した事を伝えた。1868年1月6日の小御所(こごしょ)会議で、将軍の廃止ばかりでなく、ミカドと将軍の間に立つ、従来の関白、伝奏、議奏の三職廃止と、代わりに総裁、議定、参与の建議をしたことをサトウに知らせた。しかし、この建議に対して、譜代大名のみならず、他の大名からも大反対があった。それは、極端論者がその行き過ぎから、ミカドの廃止さえやりかねない事の恐れからだと述べた(その後、江戸の北町奉行に転ずる。官軍側は江戸市中の取締を強化するために、石川を大目付に抜擢したが、幕府側の態度を批判して切腹する)。
勝義邦(海舟);勝安房守。将軍慶喜が大政奉還したことを知り、事を早まった。そのために、内乱が勃発する恐れがあると心配していた。慶喜が蟄居してからは幕府側代表としての情報源となる。1868年4月12日、江戸での対談で、勝と大久保一翁が官軍との談判に当たっていると話す。勝は主君の一命が助かり、家臣を扶養していけるだけの充分な収入が残されるなら、どのような協定にも応じる用意があると述べた。彼はまた、西郷に向かって、条件がそれ以上に苛酷なら、武力を持って抵抗することをほのめかす。また、内乱を長引かせるような過酷な要求は、必ずや西郷の手腕で阻止できると信じていた。ハリー卿に対しては、ミカド政府に対する影響力を行使して、戦禍拡大を未然に防いでもらいたいと願い出た。ハリー卿も、再三この件で尽力した。勝が話した最も驚くべきことは、同年2月に前将軍、徳川慶喜の閣老とフランス公使ロッシュが対談した際、フランス側は交戦をそそのかし、フランス軍事教導団の士官たちは、箱根峠の防御工事やその他の軍事上の施設建設を執拗に勧告したことである。そして、勝と大久保一翁の二人の生命を狙う、幕府側の凶手を免れれば、事態を円満にまとめることができると話す。その後、サトウに対するお礼として、自分の乗馬伏見号を、帰国の際には、自分の脇差(小刀)を餞別として贈った。
以下交渉の過程で知り得た幕府の要人は数多い。個人的なつながりが強い方だけ紹介する。
白石島岡;下総守。神奈川奉行から新潟奉行へ。1867年7月、新潟港視察時再会する。横浜時代と違って、まるで気性が変わったように、大変丁寧で快活であった。あの時はやむを得ず、貴殿に反対意見を出さなければならなかったが、今思えば馬鹿げた議論であったと、暗に後悔の様子を示した。以前と全く情勢が変わり、我々も本当に親しくなり得たのであると話す。その後、この白石老人とは、東京で交際を新たにし、謡(うたい)の意味を講釈してくれた。彼の息子はサトウの図書係りとなったが、サトウの家で死去する。死因の記載はない。
2)朝廷
二条斉敬(なりゆき);関白、賢明、かつ、善良な人物ではあるが、あまり幕府の勧告を入れすぎるきらいがあった。
岩倉具視;1868年1月3日(慶応3年12月9日)、京都の小御所(こごしょ)で行われた国政会議では参与。ハリー卿と共に、京都でミカドに謁見する前の同年3月22日、岩倉侯を訪問する。厳しい顔つきの、老けて見える人物で、言葉に腹蔵はなかった。ハリー卿に向かってミカドや公卿は、これまで外国人を忌み嫌っていた。幕府が開国に賛成している際に、夷的排斥を唱えてきたことは事実だが、これも今や全く一変した。英国は、列国に先んじてミカドが主権者であることを承認した。これに対して、特に感謝しなければいけない。ハリー卿が退席した後、通訳を仰せつかった伊藤俊介に向かい、朝廷の外国人に対する従前の態度を、あまり露骨に話し過ぎて、相手に気を悪くさせなかったかと、しきりに心配していたという。サトウが1869年2月帰国する際、外国公使たちとの間の通訳の労をねぎらって、美しい蒔絵のキャビネット(用箪笥)を贈った。
東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)都落ちした7名の公卿の一人。参与兼外国事務取調掛、1868年2月8日、兵庫で外国公使たちに重大な通告をする。日本の天皇は、将軍徳川慶喜に対し、その請願で政権返上の許可を与えた。今後我々は、国家内外のあらゆる事柄について、最高の機能を行使するであろう。したがって天皇(ミカド)の称号が、従来条約締結の際に使用された大君(タイクーン)の称号に取って代わることになる。今後、外国事務執行のため、諸々の役人が我々によって任命されつつある。条約諸国の代表は、この旨を承知してほしい。当然、フランス公使ロッシュは、嚇怒して、こうした人々に任せてはならんと反対意見を出した。日本人としては小柄、眼光は炯々とし、歯は不揃いで、宮廷貴族がつける黒い染料(おはぐろ)はまだ、すっかりは取れていなかった。話す時、どもる癖があった。
沢主水正(さわもんどのかみ)、参与兼外国事務総督沢宣嘉;七卿落ちの1人。1868年3月1日、長崎裁判所総督になるために、伊達宗城(むねなり)に連れられ紹介された。悪党面とは言わぬが、相当な面構えの、それでいて、人を引き付ける良いところがあった。2年後、外務卿になった時は、この人物を大好きになった。
井上石見(井上長秋近衛家家士として岩倉具視と倒幕を策した人物、1868年8月22日、中井弘(後述)の下を訪ねると、すこぶる愉快な薩摩人が来ていた。井上は蝦夷の島(北海道)の資源開発に大いに興味を持っていた。彼は蝦夷を日本の植民地として、ゲルトナーというドイツ人の監督の下に、ヨーロッパ式の農法を輸入する計画を持っていた。彼との話し合いで、最も興味のあったのは江戸へミカドを移して、これを帝都としなければ、北方の諸藩の反逆を鎮めることは不可能だということだった。
3)薩摩藩
西郷吉之助;1865年11月、兵庫港で、薩摩の汽船に乗っていた薩摩左仲と名乗る、炯炯とした黒い目玉の、片腕に刀傷がある、逞しい大男が寝台の上に横になっていた。西郷吉之助との初めての出会いである。1867112鹿児島、宇和島訪問後、兵庫に投錨した際、西郷吉之助と再会する。2年前の薩摩左仲の名前を披露すると、大笑いした。この人物は甚だ感じが鈍そうで、一向に話をしようとせず、サトウも些か持て余した。しかし、黒ダイヤのように光る大きな目玉をしていて、しゃべる時の微笑には、何とも言い知れぬ親しみがあった。政事談議で、一橋慶喜について、乞食のような浪人大名に等しかった男が、一昨日将軍職を拝命した。そして、外国代表を大阪に招くつもりであると教えてくれた。一橋は大いにミカドの寵を受けており、それを仕組んだのは老中板倉勝静(かつきよ)だと告げた。また、若年の弟、民部大輔をフランスに全権大使として派遣しようとしている。近来、幕府が勝手なことをやっていて、日本を滅ぼすことは座視できないと、我が主君(島津久光)は申している。ミカドが大名家の雄藩を京都に招いて、政治を行うとばかりに思っていたが(諸候会議)、幕府にはそんなつもりはないことがわかり、越前(福井藩前藩主、松平慶永)は退去してしまった。兵庫開港については、反対ではないが、日本全体の福利となるよう開港することを願っており、幕府の私利のために開くのは反対である。ではどのような開港を望んでいるのかと質問すると、兵庫に関する一切の問題は、5ないし6名の大名による委員会の手にゆだねる。そうすれば、幕府が利益を独占し、勝手な行動などはできない。兵庫は各藩にとっても重要な港である。各藩はみな、大阪の商人から金を借りている。この借財の支払いで、毎年郷里の産物を大阪に送らねばならない。兵庫が横浜と同じやり方で開港されれば、藩の財政は大混乱をきたすだろうと返答した。同年8月24日、大阪城で、将軍慶喜がフランス公使ロッシュ引見2日後、パークス卿を引見する。その日西郷が来て、会談の内容と意見を求められた。西郷はこの時の会談について、薩摩の大久保一蔵に手紙を送っている。この手紙は維新後、岩倉具視の侍従、旧友の松方正義から、岩倉侯の書類の中にあった原本の写しを、明治39年に頂いたものである。そこには、次のようなことが書かれていた。私(西郷)は、フランス人による日本の事態の解決策について、討議したいと切り出す。サトウは、フランス人は日本を、西洋各国のように単一に統一された政府を作り、大名たちの権力を排除する必要がある。それには、まず、薩摩と長州2国を打破し、この2国を征服するための援助を惜しまないだろうと話した。この点について、サトウの意見を求めると、前2回の長州征伐からもわかることだが、長州1か国さえ打ち負かすことができなかった幕府が、大名全部の権力を奪うことは、到底できるものではないと答えた。さらに、西郷はこのように弱い幕府を、どのような手段で外国は援助するのかと問うと、サトウはその質問には、一語も発することができないし、また、それを論証することも不可能であると返答した。しかし、フランス側は、装備を備え、戦争に訴え先端を開く考えであり、軍隊を派遣するつもりだろう。その際、英国が防御の軍隊を派遣するという報が広まるなら、フランス側の補助部隊は移動が不可能になる。そのためには、英国との充分な協力体制をとることが肝要であると述べた。英国の考えは、まず日本の皇帝が政権を掌握して、諸大名をその下に置き、政体を万国の制度と等しいものにする。これが何よりの先決問題である。先ごろ、英国の君主が、孝明天皇の崩御のことを知り、哀悼の意を表された書簡を幕府に送ったが、答礼がない。また、外国人を京都に入れると、穢れになるなどと言っているがよくない。確固たる政治体制のもとに、万国との通常の関係を維持することが肝要である。もし英国と相談することがあるなら、自分(サトウ)に知らせてほしい。援助を頼むなら、自分は引き受けるつもりである。西郷は之に答えて、我々は日本の政治の改革には、自ら努力する覚悟であり、外国人に対して、弁明の言葉もない次第であると述べた。また、サトウは、フランス人は横浜で利をむさぼり、自分勝手な契約を結んでいる。英国は貿易で立っている国なので、貿易を妨げるいかなる試みにも、絶対に反対である。最後に、幕府に対する言葉使いは、大いに軽蔑的であったと結んでいた。その翌日8月25日、サトウは京都の情勢を聞くために、薩摩屋敷へ行き、西郷と再度会談する。そこで西郷は幕府の代わりに、国民議会を設立すべきであるといったので、大いに論じた。また、幕府は大阪と兵庫の貿易の全部を、日本人豪商20人からなる組合の手にゆだねて、幕府自らこれを独占する計画を立てていると漏らした。これは1840年のアヘン戦争以前の広東(かんとん)の、古い組織の模倣である。この情報をハリー卿の耳に入れると烈火のごとく怒り、直ちに主席閣老に会い、この計画を放棄するよう求めた。こうした組織は、理論的にどんな長所があっても、西洋の思想とは相いれないものであり、東洋諸国がこのような組織で、英国の進路を妨げるなら、戦うことも辞さないと話した。
伊地知正治;薩摩英国戦争時、主君と別盃を酌み交わし、英国艦隊を襲撃するため部下40人を引き連れて、旗艦ユーリアラス号に乗船してきた。その後、江戸で昵懇の間柄になる。
五代才助、友厚;1863年8月薩摩英国戦争の際、薩摩藩青鷹丸の船長で捕虜となる。気品のある容貌のすこぶる立派な男子。1865年3月(慶応元年)藩命で英国に留学した1人、気品のある容貌のすこぶる立派、後に、明治元年(1868年)外国事務判事、初代大阪税関長、政府に大阪造幣局の設置を進言。明治2年新政府の参与を任じられたが、官を辞し、実業界へ。金銀分析所設立、明治4年大蔵省造幣局設立、明治6年弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立して、日本の鉱山王となる。明治9年、堂島米照会所設立。明治11年、大阪株式取引所(現、大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現、大阪商工会議所)初代会頭に就任。
新納刑部(にいろぎょうぶ)五代才助らと英国に留学した家老。1867年1、長崎訪問の帰りに薩摩藩を訪問し、新納刑部、島津伊勢(久光の弟)らと会談する。その席で、薩摩藩主(久光)が兵庫開港に反対する上奏文を提出した事実を知る。その晩、新納刑部の自宅を訪問し歓待を受けた。新納の話の模様から、今後、薩摩と長州は提携して幕府と対決することが察せられ、この2藩が英国と親善関係になっていたことは幸いだった。この薩摩藩訪問視察中、薩摩の人々は、文明の技術に長足の進歩を遂げつつあるように見受けられた。そして、非常に勇気があり、性格が素直であるという印象も受けた。その後、同年9月の長崎では、浦上村で多数のキリスト教教徒が逮捕されたと教えてくれた。平山敬忠(前述)は赦免するのではと話したが、新納自身は反対の意見を述べ、幕府を非難する的にしたい様子だった。維新後は司法省判事歴任。
島津伊勢;島津三郎(久光)の弟、美青年。将軍の長州征伐に薩摩藩が出兵することに反対する上奏文を藩主に代わって書いた。また、そこには、薩摩藩が兵庫開港に反対することも書かれていた。
吉井幸輔;最初に西郷吉之助とあった舟中で会っていたが、1867年の大阪訪問時再会する。小柄だが、非常に快活で、薩摩なまりを丸出しにしてしゃべった。
小松帯刀;宇和島藩訪問後、1867年2月9日横浜から兵庫に到着、2月11日初めて大阪を訪問する。吉井幸輔と小松帯刀の両名を、宿泊先に招待した。小松はサトウが知っている日本人の中で、一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似あわず、政治的な才能があり、態度が人に優れ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。顔の色も普通よりきれいだったが、口が大きいのが美貌をそこねていた。翌日、答礼の形で、書記官ミッドフォードと薩摩の蔵屋敷(物産扱所)を訪ねた。そこで、吉井と小松から、ミカドの崩御は2月3日と公表されているが、実は1月30日で、天皇の息子(睦仁親王15歳)が即位したことを告げられた。また、幕府を倒すことは、薩摩及び薩摩と行動を共にしている諸藩の本意ではない。ただ幕府の権力乱用を防ぐに過ぎないのだから、この旨をハリー卿に伝えてほしいと頼まれた。また、彼らは天皇が、日本の実際上の統治者に復帰することも望んでいた。そして、幕府が兵庫開港の実現を本心から欲していない理由は、兵庫の開港によってミカドや廷臣の知性が、急に光明をあびるに至ることを恐れるからだ。また、もしハリー卿が来て、ミカドに条約の締結を申し込むなら、諸大名は直ちにこれに同意の旨を通告して、この大計画の遂行に協力するために京都へ参集するだろう。そして、ハリー卿がこの程度の力を諸大名に貸してくれさえすれば、それで足りるのであって、それ以上の事は自分たちの力でやり遂げようと話した。維新後の1868年8月23日、小松と中井弘(後述)と会食した。小松は英国海軍士官の雇用問題を取り上げ、明らかにそれらの士官を、解雇したがっている様子なので、解雇するよう勧めた。その後小松は、士官はそのままの職にとどめ、下士官や水兵は、英国に送り返すことにしたいと述べた。
松木弘菴、後に、寺島陶蔵(宗則)、神奈川県知事、外務卿医者で1862年の第1次日本遣欧使節に参加。1863年8月の薩摩英国戦争で青鷹丸乗船中、五代才助と共に捕虜となる。新納刑部、五代才助らと1865年3月、英国に留学し帰国したばかり。はじめ、幕府と内通しているのではとサトウは疑っていた。1868年1月14日、大阪の薩摩屋敷で面会する。尾張と越前がまとめ役になっている、前将軍慶喜の領地返上問題が解決するまで、サトウは、ミカドの親政を諸外国に公表するのを延ばしたほうが良いと伝えた。また、会津と桑名だけが、海路帰藩するために下阪せよとの勅名を受けていたが、この2藩だけで大阪へ下ることを欲しなかったので、慶喜も同行することが許されたと述べた(その後の会津藩を、悲惨な運命に導いた陰謀?)。新政府は、慶喜の返還すべき領土を、国家の歳入の基本とするつもりだ。また、土佐、その他の諸藩、各大名も、それぞれ分に応じて犠牲を供出すべきと発議があったが、薩摩はこれに反対したと述べた。
柴山良介、南部弥八郎;1867年5月、大阪から江戸へ駕篭に乗り帰り、公使館勤務中、薩摩藩の情勢を知るため、三田の薩摩屋敷に出入りしていた。翌年の1月19日、不穏浪士掃討のために、江戸三田の薩摩藩邸の焼き討ち事件がおこる。伏見鳥羽の戦いが始まる8日前である。サトウの親しい友人であった柴山は、捕われの身になり、自分が頭目であると自供し、持っていたピストルで頭部を撃ち自殺する。
大久保一蔵、利通(薩摩藩家老、内国事務係り参与、維新後、第3代大蔵卿、初代内務卿、1871年岩倉使節団の副使として外遊;1868年2月20日、前年、進物のやり取りをしていた大久保一蔵を初めて訪ねた。歩兵7千が箱根の方へ、5千が、中山道の山道に向かって出動しつつあると教えてくれた。また、薩摩、長州は戦争継続を決意し、参与の間では完全な一致をみている。最初は武力行使に反対していた越前、肥後も、今では他の諸藩と行動を共にしつつある。最近まで会計係り、参与で、徳川の味方だった大垣の大名(戸田氏供、うじたか)は、江戸討伐軍への即時出動を希望する旨を表明した。おそらくミカド(睦仁親王)も親征されるであろうし、これによって、反軍の士気は大いに阻喪する。そして、フランス公使ロッシュの帰国により、慶喜も物質的援助を頼む人が皆無になるから、屈服の決心をするに違いない。もし屈服するなら一命は助かるかもしれない。しかし、会津、桑名は首を失うことは免れまい。その後、英国の議会制度、関連した行政府の機能、政党の存在、下院議員の選挙などについて、できるだけ丁寧に説明した。同年8月23日、この年の初め、大久保が、京都から大阪への遷都を提案したことを知る。その後、江戸を政治の中心とし、その名を東京としたが、そこには彼の影響が大きかった。大久保はすこぶる無口の性質であった。その後の彼からの唯一の情報は、宇和島藩、前藩主伊達宗城(むねなり)が仙台に行き、伊達家とその頭首に当たる伊達義邦を説得して、会津に対する援助をやめさせることになったと教えてくれた。
中井弘、弘蔵(後藤久次郎);後、京都府知事、鹿鳴館の名付け親、1868年3月23日、京都でミカド(睦仁親王)に謁見するため、ハリー卿一行は、宿泊先の知恩院を出て、皇居に向かう際、四条縄手通りで2名の暴漢に襲われた。付き添っていた中井と後藤象二郎がこの暴漢の一人(元京都代官小堀数馬の家士、林田衛太郎)と切り会い首をはねた。後、英国ビクトリア女王からこの両名に対する謝礼の品、飾りのついたサーベルを頂く。その後、外国事務係りになった。実に快活、陽気な男で、いつも愉快な冗談が口をついて出た。宴会をする場合は、外国局の太鼓持ちというあだ名がついていた。
4)長州藩
高杉晋作は、第Ⅱ章、英国を中心とした外国政府の、当時の日本に対する情勢分析でも紹介したので、省略する。
木戸準一郎(桂小五郎、木戸孝允たかよし);外国事務係、参与、文部卿、1871年岩倉使節団の副使。18671、薩摩藩訪問中、鹿児島湾には、長州藩の“オテントサマ”という小汽船が碇泊中で、木戸準一郎が今夜10時に島津三郎(久光)と、翌朝3時に主な家老と会談する予定であると、新納刑部から聞き出す。サトウの友人、志道聞多(井上馨)と伊藤俊介の消息を知りたいから、木戸に面会したいと申し入れをすると、その宿舎を教えてくれた。しかし、日程の都合で会うことはなかった。同年9月12日、土佐藩を訪問し、山内容堂、後藤象二郎との会談後、長崎に着く。その晩領事館に伊藤に帯同して、木戸準一郎が訪ねてきた。木戸は軍事的、政治的に最大の勇気と決意を心底に蔵していた人物だが、その態度はあくまで温和で、物柔らかであった。また、藩主をかばって、悪意も害意もない人だが、世間は大分誤解している。主君は幕府を転覆するなどという考えは夢想だにしていないと話した。
志道聞多、後に、井上馨;1863年5月12日横浜の港から、英国を目指して密航した長州五傑の1人。維新後は大蔵卿、外務卿。
伊藤俊介、後に、伊藤博文(参与、外国事務局判事初代兵庫県知事1885年12月、明治18年初代内閣総理大臣就任)外国に対する無謀な攘夷戦争を止めさせようと、英国留学の志し半ばで、志道聞多と共に、1864年7月横浜に急遽帰国する。7月21日、サトウらの英国艦隊に志道聞多と同乗し、周防沖の姫島に上陸後、終戦交渉に当たる。1868年2月8日、東久世が兵庫で外国公使たちに重大な通告をした翌日、伊藤は、長州が小倉、石見の国の攻略した土地を、天皇に献納した。桂と自分は、更に一歩進め、長州一門の扶養に必要なものだけ残して、土地、家来、財産、すべて天皇に返上することを希望している。もし、大名全部がこれに倣うならば、現在の制度では望み得ない、有力な中央政府が出来上がるであろう。各藩の大名が、まちまちの流儀で軍隊の教練をするのを放任する限り、日本は強国になり得ない。北ドイツ連邦で、その実例が繰り返された。弱小な諸候は、より強大なものに併合されるほかはないのだと話す。2日後の2月10日、伊藤が神戸の町の関税管理者兼知事になると伝えられた。外国公使たちには、さして高官でない伊藤のような人物が、こうした重要な二役の兼任に適しているか、また、一般の人民が容易にそのような人物に服従するのか、奇妙に感じられた。サトウは、日本の下層階級は、支配されることを大いに好み、機能をもって望むものには、相手が誰であろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。その上、伊藤には英語が話せるという大きな利点があった。さらに、もし、両刀階級の者(侍)を日本から追い払うことが出来たら、この国の人民は服従の習慣があるので、外国人でも日本の統治は、さして困難ではなかっただろうと述べている。
遠藤謹助;1867年9月、長崎で伊藤俊介から長州5人男(Chosyu Five)の一人を紹介された。以後明治維新前後の長州藩との連絡係りで、後、造幣権頭(ごんのかみ)となる。
5)土佐藩(高知県)
後藤象二郎(土佐藩家老);1867年8月5日、英国軍艦イカラス号水兵2名が長崎で殺害された。犯人捜索のために、幕府の平山敬忠(よしただ)と他の2名の役人が先に、土佐藩へ派遣されていた。阿波からパジリスク号で9月3日土佐へ。後藤象二郎らとの会談で、犯人は土佐藩士と決めつけていたハリー卿との間で激論があり、その間を取り持った平山は、すっかりしょげかえってしまったとある(実際の犯人は1868年末に、筑前藩の者だと判明する)。イカラス号犯人捜索会談後、パジリスク号艦上の会談で、彼は英国を模範とした国会、憲法を作ろうという考えを述べ、西郷もこれに似た考えを持っていると話した。そして、幕府が大阪と兵庫の外国貿易を統制しようと、組合(ギルド)の結成を計画している。その計画に対して、後藤はさんざんに罵倒した。サトウは、これまでに会った日本人の中で、最も物わかりの良い人物の一人であるが、西郷のほうが人物の上では、後藤より優っていたと述べている。後藤に対しては、ハリー卿も気に入って、互いに永遠の親善を誓いあった。同年11月23日ごろ、後藤からの手紙(薩摩藩、中井弘が持参する)が届いた。そこには土佐藩から将軍に対して、従来の方針(大政奉還?)で進むように勧告し、合わせて種々の改革を提案するものであった。最も重要なことは、両院からなる議会の開設、主要都市に科学と文学の学校を設ける、諸外国と新条約の商談を行うことなどが書かれていた。手紙を持参した中井らは、サトウに議会の運用に関する詳細な知識を求めたが、今度兵庫開港で大阪に行くので、その間の事情により詳しい、上席の書記官ミッドフォードから、議会の知識が得られるよう紹介すると話した。
山内容堂(豊信とよしげ)、前土佐藩主;1867年9月5日、ハリー卿が帰ったあと、容堂と後藤との会談では、欧州のルクセンブルグ問題(ナポレオン三世がルクセンブルグをオランダから買収しようとしたが、プロシャがこれに反対し、ロンドン条約でルクセンブルグは永世中立国となった。坂田注)、憲法国会の機能、選挙制度などについて質問してきた。彼らの心底には明らかに、英国の憲法に似たものを制定しようとしていた。そして、ミカドに仕えて、日本の議会設立に力を貸してもらいたいと頼まれた。宴会のあと、等身大の男女の解剖模型が並べられ、後学のためにバラバラにして説明してくれた。容堂は背が高く、少しあばた顔で歯が悪く、早口でしゃべる癖があった。大酒のみのせいで、少し体が悪かったようだった。彼は偏見にとらわれず、その政治的見解も決して保守的なものではなかった。しかし、薩摩や長州と共に、あくまで変革の方向に進んでいく用意があったかといえば、それは疑わしかった。書記官ミッドフォードの回想録では、1867年12月10日の小御所会議で、徳川家の200万石の領地の引き渡しが強行されようとした時、容堂公はそんなものを没収しても、国家の収入の中核としては何の役にも立たず、不合理だという意見を述べた。容堂公は、すべての大名は藩の所有する財産を国に引き渡して、自身の為には相応の地位を維持するに足る、一部の資産を残すにとどめるべきという提案もした。この提案が実行されれば、各藩は陸軍、海軍を維持する必要性から解放されるわけで、領地を手放す犠牲を償っても、余りあると予見していたことになる。薩摩やその他の諸藩は、初め、時代遅れの封建制度にまだ執着しており、この案には尻込みしていた。1869年3月5日(旧暦1月23日)の“太政官日誌”に、先祖代々の広大な領地を朝廷に返納するという、最初の記念すべき声明書があり、毛利宰相中将(長州)、島津少将(薩摩)、鍋島少将(肥前)、山内少将(土佐)の署名がある。そして、この声明書は、従来の各藩ごとの規制の、廃止につながるものとなった。
陸奥陽之助(宗光)、紀州生まれの若い土佐藩士、1867年1月15日、外国公使のミカド政府承認に関する問題を論じた。我々は(サトウら)、慶喜から引き続き政務をとると聞いているが、京都側からはまだなんらの通知を受けていない。もし、京都政府が国政の指揮を執るつもりなら、外国事務の引き継ぎを公使に通告する旨を、あらかじめ幕府に通達し、次いで各国公使を京都に招かなくてはならない。こうして、初めて、ミカドの地位が中外に宣明されることになると。陸奥は、自分は後藤の使者としてきたわけでない。陸奥個人の意見としては、まず皇族の一人が大阪に下って、城内で外国の諸代表と会見を行い、その席で、徳川頭首が外国事務の管理を辞任する。次いで、皇族がミカドの政策について宣言を行う。もちろんその場合は、大名と大名の軍隊がその皇族を護衛して下阪することが必要だ。サトウも賛同する。陸奥の依頼でこのことは、誰にも漏らさぬよう依頼された。
6)宇和島藩(愛媛県宇和島市)
井関斎右衛門186612月23日、始めて長崎訪問する。訪ねてきた井関斎右衛門から大名会議(諸候会議、第一の議題は長州藩に対する懲罰)は当分延期となったという情報を得る。兵庫開港は、四国では半分の藩が賛成だが、九州の人々は長崎の衰微を心配して反対している。また、一橋(慶喜)はまだ、将軍職とそれに付随する宮中の位階を得ていないと話す。そして、長州に対する意見を求められたので、英国は長州と和解している。日本人の内輪喧嘩には、一切干渉することを好まないと伝えた。その後、彼は明治初年、横浜知事となる。
伊達宗徳(むねえ);186715鹿児島を離れ、16宇和島湾に投錨する。そこに小舟に乗った藩主、伊達宗徳(むねえ)が出迎えた。当時32歳、やや中背のかぎ鼻の貴族的な顔立ち、立派な容姿をしていた。
伊達宗城(むねなり、前藩主、伊予守);四国の小領地の藩主にしては、もったいない程の有能な藩主である。17風雨の中、藩主宗徳と来艦、顔立ちのきつい、鼻の大きな、丈の高い人物で49歳。大名家の中でも、一番の知恵物の一人といわれていた。この隠居は幕府とフランス公使の間で、きわめて怪しい親交が結ばれていると告げた。この隠居が艦を離れると、藩主たちの妻子たちが交代で来艦し、恐れる様子もなく見学していった。その晩は砲兵隊長入江の自宅に招待され、畳の上で宿泊する。翌日は射的場で英国士官たちと討ち比べをする。その晩は藩主の御殿に招待された。祝宴の最中、政治談議が始まり、サトウが書いた“英国策論”を読んだと告げられた。そして最後には、この前藩主は上機嫌で、英国士官たちの踊りに加わり、2人の家老と一緒に千鳥足踊りを披露した。後、新政府の閣員となり、外交団と朝廷との重要な交渉役、情報源の一人となった。
7)阿波藩(徳島県)
蜂須賀斉裕(なりひろ)、阿波守;1867年8月31日、阿波訪問。年の頃、47歳ばかり、中背で、少し痘痕はあるが、上品な風貌をしていた。態度はぶっきらぼうで、尊大であったが、至って機嫌がよかった。
蜂須賀茂韶(もちあき)、淡路守、斉裕の世子、22歳ぐらい、身長は父より少し高いぐらい。温和な、肉付きの良い顔をしており、態度も温厚かつ控えめで、父親に対しては、大いに敬意を払っていた。宴席の後は、家臣たちの狂言や演劇が催された。藩主は提督を父、ハリー卿を兄と呼んだ。進物は一行の召使いまで行き届き、大変満足した。翌日は、500人ほどの家臣たちの観兵式が披露された。帰り際、ハリー卿は藩主と世子に指輪を贈り、提督が藩主に指輪をはめてあげたところ、大変喜んだ。後、1869年1月2日、江戸城でのミカドの外国公使との謁見では、重要な役職につき、外国公使たちを出迎えた。
速水助右衛門;大阪の阿波藩留守居役、1868年3月8日、土佐藩の老侯山内容堂が京都で重体との知らせを届け、公使館医務官のウイリスに診療を願うためにみえた。阿波守に送った砲術書の返礼に絹布の進物を持参した。そして、あの友情の深い親切な老紳士(蜂須賀斉裕)が1月30日に逝去したこと知らせた。そして、江戸の情報を教えてくれた。
) 肥前藩(佐賀県)
松平閑叟(鍋島斉正、後、直正);前藩主。1867年4月29日、大阪で将軍慶喜からハリー卿へ紹介された。その時、47歳、年よりも老けて見えた。顔つきがきつく、たえず両目をしばたたきながら、時々思い出したように、ぶっきら棒な調子でしゃべった。彼は日和見主義者で、大の陰謀家だとの評判だったが、はたして、革命の瞬間まで、その去就が誰にもわからなかった。二股膏薬との呼び名があった。しかし、倒幕後、ヨーロッパに使節として派遣する代表者の助言を求められたので、東久世より、伊達か岩倉か、それともこの閑叟あたりが、適任者などと話した(明治4年11月12日、総勢107名の岩倉使節団となる)。
9)肥後藩(熊本県)
細川良之助(藩主の弟)彼は肉付きの良い、丸顔の、年の頃25歳ぐらい、聡明な人物であった。彼は薩摩藩には、属していないので、政治の話になると、サトウは口をつぐんだ。1868年6月ごろ、数名の肥後藩士が訪ねてきて、これから北方の津軽へ行くところだと述べ、封建制度以外のいかなる制度も日本には受け入れられないなどと述べた。そして、肥後藩が密かに若松に使者を送って、会津と西国および南西諸大名との和睦を成立させようと試みたが、これに対して、会津は事態はすでに手遅れで、紛争中の諸問題は剣によって解決する以外に道はないと答えたと教えてくれた。
10) 久留米藩
186612月23日、長崎滞在中、久留米藩の医師今江栄、永田忠平、時計製造人だった田中このえ(その後、熟練した機械技師となり、日本の汽船2隻の汽缶、ボイラーを組み立てた)などと会食する。この席で、兵庫開港を反対する主な理由は、兵庫以西で産出され、久留米で消費される茶が、兵庫に集められ、輸出されぬかと案じていた。サトウは外国と戦争になると、京都が攻撃の的となると話すと、酔った勢いで永田は、京都を攻撃してはならぬ。幕府を倒せと大声で叫んだ。久留米の人々は、日本の西部にみなぎっている感情に共鳴しているように見受けられた。
11)会津藩
松平容保(かたもり);1868年1月8日、大坂城内で、慶喜とハリー卿との会見時の印象では、年の頃32歳、中背で痩せており、かぎ鼻の、色の浅黒い人物であった。
梶原平馬(家老);1867年2月9日、大阪で吉井幸輔と小松帯刀との会談後、サトウの執事野口を、京にある戦闘部隊で最も精鋭部隊を出している、会津藩の人々と面会しようと出張させた。2月17日の晩遅く、梶原、倉沢右兵衛、山田貞介、河原善左衛門の4名が訪ねてきた。彼らは送り物として、数巻の淡青色の絹の紋織と目録(ハリー卿、ミッドフォード、サトウに後から送る刀剣やその他の品物)を持参してきた。サトウらはお返しの品物がなかったので、シャンペン、ウイスキー、シェリー、ラム、ジンなどでもてなした。瞬きもなく飲み干したのは、家老の梶原で、彼は色の白い、顔立ちの格別立派な青年で、行儀作法も申し分なかった。彼らはまた、軍艦を見たがっていたので、ヒューエット艦長への紹介状を書いた。これが機縁となって、会津藩の人々とも親密な間柄になる。その後の戊辰戦争になった後でも、会津藩の友人たちは、英国の望むところは、一つの国民としての日本人全体の利益であって、国内の党派のいずれにも組するものでないと、はっきりと見抜いていたので、英国の演じた役割を少しも恨まなかった。

野口富蔵;はじめ英語を学ぶために、函館の英国領事、ヴァイスに師事する。その後、1865年秋、勉強を続けるために横浜にきて、サトウの執事となる。明治2年、サトウの帰国と共にイギリスに渡る。最初の2年間の留学費用はサトウが負担する。帰国後は軽微な公職につく。野口にとっては割合に高い地位だったが、もったいぶった顔もせず、あくまでも正直で、誠実な男だった。1885年死去したことを知る。

第4章 若松城陥落

1868年11月16日に行われた、外国使臣と東久世(外国官副知事)、寺島宗則(神奈川県知事)との会見の席上で、若松城が11月6日に官軍に降伏したことを知らされた。会津藩主父子(松平容保、その子喜徳)は礼服を着用し、降伏と書いた大きな旗を持った家来を先頭に立て、同じく礼服を来て頭をそった守備隊員を従えて、攻囲軍の軍門に降伏した。官軍の幕僚長、中村半次郎(後の桐野利秋)は城と城中の器財を受け取りに城に入り、その惨憺たる状況を見て、男泣きに泣いたという。京都の官報に公表された肥前藩の詳報によれば、会津の守備軍の侍階級の軍人764名、下級の兵士1609名、負傷者570名、他領からの脱藩者462名、婦女子639名、役人199名、一般人646名、藩主父子の身辺の従者42名、人足42名からなっていた。防戦中の戦死者数の記録はない。

第5章 耶蘇教禁令について

1867年9月長崎訪問中、浦上村で、多数のキリスト教教徒が逮捕されたと薩摩藩家老、新納(にいろ)刑部が教えてくれた。日本ではキリスト教については、魔法か妖術の類との思いが強く、禁制の擁護となっていた。その後、1868年5月18日、この問題について、後藤象二郎と伊達宗城(むねなり)が、横浜のハリー卿を訪ねてきた。伊達は耶蘇教(邪悪な、有害な宗派)という用語に難点があることを認め、大阪や兵庫の制札には出さぬようにする。しかし、耶蘇教の禁制条項をすべて除くということは不可能であろうと話した。ハリー卿は、信仰の自由は文明の証拠であると半駁する。そのあと、中井弘とサトウで長い時間、この問題について話し合いをし、法令では特にキリスト教と名ざさずに、単に、有害な宗派の禁制とすべきであると提言した。しかし、日本政府はこの禁令の撤廃を行う意思のないことは明瞭であった。何故なら、これを撤廃すれば、布教態度があまりにも、積極的なために嫌われていた、長崎のローマン・カトリック宣教師に対して、行動の自由を認めることになるからである。ハリー卿も何とかこの問題を解決しようと、その翌日、三条実美、伊達、後藤、木戸などと再度会見する。中井はサトウに向かって、彼らは独裁権がないのであまりあてにならないと話す。日本側もこれを邪宗門と書いたことは、間違いである事を認め、この字句を改めることを申し出た。その結果については、日本側は何一つ発表しなかったが、それは、キリスト教を黙認する結果となった。5月24日、ハリー卿は前回の閣員と、今度は岩倉と、初めて顔を見知った肥前の若侍、大熊八太郎(重信、アメリカ人宣教師フルベッキ博士の弟子)も加わっての討論となった。しかし、他の諸外国外交官の共同抗議も効果なく、長崎浦上村、老若男女4千名の日本人を、他の地方へ追放する処分が断固として実行された。同年12月21日横浜の公使館で、ハリー卿、伊達、東久世、小松、木戸、町田民部(薩摩の英国留学生)、池辺五位(柳川藩士)などと大会議がおこなわれた。議題は、山口範蔵(外国官判事)を軍艦で函館まで送り、函館の反軍の首領(榎本武揚ら)と談判させること。第二はキリスト教問題であり、木戸とハリー卿との間で大激論があった。結局ミカドの思召で、キリスト教徒を寛大に処置するという意味の覚書を、外国公使たちに送ることを約束させた。その後、サトウが帰国する直前、1869年2月14日、東久世が主催した送別会で、木戸、森有礼から、日本人キリスト教徒問題の助言を再度求められた。そこで、スペインでも最近まで、新教徒の信仰の自由がなかったことなどを話し、議会の条例で、信教自由の観念を日本人に吹き込むことの困難であることを認め、まず、穏便な方策を取ること。時々、外国公使たちへ長文の覚書を送り、彼らをなだめるようにすること。森が言うような蝦夷の地(北海道)で、キリスト教徒に土地を分配して、自由に信仰させるという考えが、良いとは思わない事などを話す。しかし、残念なことに、ハリー卿はじめ各国外交官の諫言にも関わらず、浦上四番崩れと言われる彼ら信徒は、津和野、萩、福山の流刑先で拷問、私刑を受けることになる。信徒の釈放は、岩倉使節団(明治4年11月12日)が訪問先の各国で、この問題で非難をあび帰国した、1873年(明治6年)2月24日を待たなければならなかった。配流された信徒数は3394名、その間の死者は662名の多数になった。

第6章 外国人襲撃、殺傷事件

    アメリカとイギリスの公使が江戸に居を構えて6週間後、1859年8月26日(安政6年7月28日)ロシア軍艦の士官と水兵が、食糧の買い込みに上陸した横浜の街頭で斬殺された。最初の横浜外人墓地埋葬者となる。
    同年11月、フランス副領事のシナ人下僕が殺害、2か月後オールコック卿付日本人通訳、伝吉が江戸の公使館門前で背後から刺殺された。
    1860年初め、オランダ商船の船長2名が横浜で斬殺され、横浜外人墓地に埋葬された。
    その後外国人が次々と狙われ、1861年1月14日(万延元年12月4日)、アメリカ公使館通訳官ヒュースケンが乗馬で帰宅途中、攘夷浪士組、薩摩藩士伊牟田翔平らにより殺害された。幕府は1万ドルの弔慰金を支払う。
   1861年5月28日(文久元年)、英国公使ラザフォード・オールコック卿が長崎から江戸へ向かう際、幕府は警備上の問題で海路を進めたが、陸路で江戸へ旅した。それに対して、神州日本が穢されたと水戸脱藩浪士ら14名が、江戸に到着した7月4日の翌日、高輪郊外東禅寺の英国公使館に侵入し、書記官のオリファント卿と長崎領事モリソン氏が負傷する。犯人逮捕(切腹や斬首)と賠償金1万ドルの支払いで解決。
    1862年5月29日(文久2年)、同じ東禅寺で、日本人護衛(松本藩士伊藤軍兵衛)が、公使館の1番年少(15,6歳)の館員から侮辱を受け、その復讐のために、寝所の入り口に立っていた哨兵と巡邏中の衛兵伍長を殺害、短銃で傷を負った自身は割腹自殺。
    1862年98サトウが横浜着任、914横浜郊外の生麦村で、上海の商人リチャードソンが殺害、他の2人が重傷となる事件が起こる。横浜からわずか2マイルの保土ヶ谷に宿泊している島津三郎(久光)の下へ、犯人引き渡しを求めようと、横浜港に停泊していた各国1千名の兵士を差し向けることも可能であったが、ニール大佐は、実際上日本と開戦するに等しい結果を招くと反対する。フランス公使も同じ意見を述べたので、外交間交渉にゆだねることになった。
    1863年10月14日、フランスの将校(カミュス中尉)が横浜の居留地から2-3マイルも離れていない場所で、乗馬しているところを襲撃され殺害される。その親族に、3万5千ドルの賠償金を支払う。
    同年10月20日、英国のボールドウイン少佐とバード中尉の二人の士官が鎌倉で、騎乗しているところを殺害された。幕府は1か月もたたずに犯人を逮捕し、元矢田部藩士の清水清次ら二名を処刑する。日本の探偵警察の優秀なことは、外国人の間では評判であった。その後は、外国人殺傷事件は影を潜めていた。
    1867年8月5日(慶応3年)、長崎で英国軍艦イカラス号の水兵2名が、泥酔し道路で寝込んでいるところを殺害された。最初、土佐藩士が疑われ、外国総奉行の平山敬忠が犯人逮捕の責任者となる。ハリー卿の威信をかけた犯人捜しの追及も、維新が成立した1968年8月に、筑前藩士2名と判明する。懸賞金は銀4000枚(450ポンド)の高額となっていた。
    1868年2月4日(明治元年1月11日)、備前(岡山県和気郡)事件、その場に居合わせた、英国書記官リーヅデイル卿(ミッドフォード)の回想録では、攘夷思想の旺盛な備前兵士が、酒屋から出てきたフランス水兵を槍で小突いた。その後集まってきた外国人に対して、指揮官の滝善三郎が、外国人に向かって射撃するよう命令した。その際、若い米国水兵が軽い怪我をしただけであった。五代才助(薩摩藩英国留学生)と伊藤俊輔が、腹切りを宣言された日置帯刀の家臣、滝善三郎の命乞いを求めて書面を持参してきた。外国公使たちの3時間に及ぶ協議の結果、槍で小突いた兵士は死罪、命令をした滝善三郎はサトウらが見守る中、切腹する。
    堺事件、備前事件の教訓が生かされず、1868年3月8日、堺港の測量を行っていたフランス水兵が上陸した際、土佐藩守備隊との間にいさかいが起こった。ボートに乗って逃げる水兵に発砲し、2名即死、そのほか9名が溺死などで死亡する。新政府に対して15万ドルの賠償金と隊長以下4名、発砲を認めた29名から籤で16名が死罪となる。11名の切腹が行われたところで、フランス軍艦長から、その後の刑の中止命令が出る。その後、刑を免れたものは、精神上の痛手を受けた。辞世の歌(殉難後草捨遣)が国民の間に流布された。その1つを紹介する。“風に散る露となる身は厭はねど 心にかかる国の行末”。サトウも9首の辞世の歌を、英訳して紹介している。サトウは、備前事件の教訓が伝わらなくて、がっかりしたとある。
    1868年3月23日、明治天皇の外国公使謁見(京都)のため、宿泊先の知恩院を出発したハリー卿の一行が、四条縄手通りで2名の暴漢に襲われ、騎馬護衛兵10数名が負傷する。犯人の一人は元京都代官小堀数馬の家士、林田衛太郎18歳と大和浄蓮寺僧侶、三枝蓊(しげる)で、中井、後藤らの奮戦で、林田はその場で殺害。傷を負った三枝の取り調べによると、ハリー卿の国籍については、まったく関知しておらず、単に攘夷思想で決行した。その後、死罪となる。

第7章 ウイリアム・ウイリス;英国公使館付医師

この連載中の文章で、どうしても触れずにはいられない外科医師ウイリアム・ウイルスを紹介します。1837年アイルランド生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で、医学を学んだ医学博士。サトウの言葉を借りれば、生涯の友人、実直無比な男で、同じ宿泊所で寝起きを供にしていた。東禅寺事件、生麦事件、ハリー卿襲撃などの外国人殺傷事件、鳥羽伏見戦争、彰義隊、越後、会津戦争などで、請われるまま、官軍、幕府軍の区別なく、戦病者の手厚い看護に専念する。1868年12月29日、越後、会津の戦傷者の手当てをして江戸に戻る。その後の談話で、城内には600名ほど、会津だけでも負傷者数は2千名もいた。また、ヨーロッパの外科手術が戊辰戦争時の外科手術に、きわめて必要だったが、日本の外科医は、どんな銃創でもみな縫ってしまうので、それが原因で死んでしまうことも多々あったとある。そして同年12月31日付けで、江戸の英国副領事に任官する。京都では、請われるまま山内容堂侯も診察した。維新後、明治天皇から金襴7本贈与、東久世からも丁重な感謝状を贈られた。余談だが、前任公使のオールコック卿の富士登山(1860年9月11日)に次いで、1867年パークス卿夫妻と富士山に登頂する。その後、新政府の要請で東京大学医学部の前身である、東京医学学校兼大病院の教授に就任、病院設立の指導に当たる。しかし、新政府がドイツ医学採用の方針を執ったため、退職した。その後、ハリー・パークス駐日英国公使の新政府に対する働きかけなどもあり、西郷隆盛の招きで、鹿児島医学校校長、付属病院長に就任する。日本人女性八重と結婚し、西南戦争勃発を機に東京に、1881年英国に帰国する。

稿を終えるにあたって;
日本の近代化には、大きな犠牲が強いられ、避けては通れない明治維新という過程があった。ちょうど英国外交官として巡り合わせた立場から、当時の日本社会を分析し、重要な立場の人たちの言葉や考えを、客観的に書き残している。薩摩、長州、その他の雄藩が、実効支配を弱めていく徳川幕府に対して、どのような見解で、どのような行動方針を計ってきたのか。また、討幕派の指導的立場の人たちは、たえず世界の情勢に、広く目を開き、今後の日本の進むべき道を探ってきたかなど、幕末の歴史研究家には必読の書である。そのほか、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の小御所会議では、土佐、越前、尾張などの親幕派から強硬な擁護があり、1月8日岩倉は、慶喜が辞官(内大臣)と納地返上に応じさえすれば、慶喜を議定に任じるという協調策を大久保、西郷らに提示した。しかし、1月17日江戸城二の丸焼失、1月19日、江戸三田の薩摩藩邸襲撃事件などが加わり、歴史の歯車は1868年1月27日の鳥羽伏見戦争へと進んでしまう。その後の過程では、木戸孝允が山内容堂侯に代わって主唱者となる版籍奉還があり、廃藩置県へと進み、明治新政府の基盤となっていった。そのほか、幕府の最高機密情報が、電信電話のない時代、速やかに、各雄藩の指導者たちに伝わり共有されていた。また、豊臣秀吉、徳川幕府以来禁令となっていた宗教問題に、明治の元勲たちがいかに苦慮し取り組んできたかなど、大変興味をそそられた。